ボクのプレシャスブルー
1.運動会の御案内
私たちが結婚をして十年の今年、下の子供の治人が小学校に入学した。
「お父さん,ただいまぁ」
「お帰り治人。あ、そこに宮野のおばちゃんからもらった饅頭があるから、手を洗って食べなさい」
「はーい。宮野のおばちゃん、今度はどこに行ってきたの?」
「どこだっけ、ああ長野だ。『牛に引かれて善光寺参り』って言ってたから。」
この宮野さんと言うのは、私が主宰しているパソコン教室の生徒で、老人会の顔役だ。その老人会のイベントで、ああ今月はここ、来月はあそこと国内を飛び歩いているのだ。そして、その度にご丁寧に毎回手土産を提げてやってくる。しかし、『牛に引かれて善光寺参り』と言いながら上機嫌だったぞ、あのばあさんは。
「あ、お父さん忘れてた。はい、これ」
饅頭を食べ終わると治人はランドセルから一枚の紙を取りだした。それを見て私の顔が歪む。
それは、運動会のパンフレットだった。
ウチの子供たちの小学校では何年か前から運動会は春に行われるようになった。それまでの三学期制から二学期制に移行したからというのが表向きの理由だが、本音は昨今中学受験が増えたので、そうした六年生の児童のための配慮のようだ。
私は徐にそのパンフレットを開いて中身を確認する。……ああ、やっぱりあった。私は午前の部中ほどにある、一年生が保護者と参加する競技を見てため息をついた。
その時、つかつかと入ってきた人影に、私はそのパンフレットを奪われた。
「すっかり春の行事にされちゃったよな、オレらの頃は秋だったのに」
そう言いながら、私に許可もなしに土産の饅頭にも手を出しているのは、純輝だ。こいつは私の妻さくらの死んだ元婚約者の甥という微妙な立場をものともせず、その上自身が四歳でさくらが私と結婚しているというのに、未だにさくらを密かに狙っている、ある意味強者だ。
「純輝」
「よしりん、コレなかなか旨いな。いつものばあちゃんの土産?」
その証拠に、私はこいつより三十歳も年上だというのに、何気にタメ口だ。
「俺は君にまだやると言ってないぞ」
「あ、いただきます……ごちそうさま」
純輝は片手で手刀を切って、そう言うと私に向かってニッと笑った。実はこういうふざけた野郎だったのか、高広は。周りから純輝が高広とそっくりだと聞かされるたび、私は複雑な思いに捉われる。
「あ、コレね。子供が乗っているそりを親が引っ張って走る競技か。いいよ治人、オレが出る」
そして、治人は純輝に親子競技のパートナーを打診していた。
「純輝! 君は治人の父親じゃないだろ!!」
「じゃないけど、さくらちゃんの息子はオレにとっても息子みたいなもんだし、どう考えたってよしりんムリじゃん。普段走り回ってるさくらちゃんを走らせるなんてことできないし、ならオレが出るしかねぇじゃんよ」
「ムリなんかじゃない! 競技には俺が出る!!」
そうだ、治人の乗ったソリは片手で引っ張るものだ。杖をつけば動ける。私は純輝の『どう考えたってムリ』という言葉に大人げなくむきになってそう言い張った。
「ダメ、お父さんはダメ! ボクは純兄が良いの!」
すると治人が目にいっぱい涙をためながら、私の参加を拒絶したのだ。
……そうか、治人。やっぱりこんな父親は嫌だよな……私は、そんな息子の言葉にがっくりと肩を落とした。
「おい治、それはねぇんじゃね?」
「だって……」
純輝が慌ててフォローに入るが、治人はまだ何か言いたげだ。そうだよな、子供たちにとって私は自慢できる父親ではない。
私は、十八年前の交通事故で九死に一生を得た。その時私は、首から下は折れていない所はないんじゃないかと言うくらい骨折していた。特にひどかったのは右足。粉砕骨折で、自身の骨だけでは再生することができず、チタンを入れてある。そのために、私の右足はほとんど曲げることができない。
実のところこれまでの運動会の際には、長時間立っていることも応援席に直に座ることもできない私は、車椅子を持ち込んで対処している。
一見、ディレクターズチェアやパイプ椅子など、簡易的な椅子でも良さそうなものだが、そういう不安定なものでは座ったが最後、誰かの介助なしには立つことができないのだ。ということは、座ったが最後全く動けなくなるということだ。
その際、大人は気遣って目線を外してくれるが、子供たちは容赦なく奇異なものを見る目で見つめる。そんな不甲斐ない父を子供たちが恥ずかしいと感じても仕方がない。
「純輝…すまん、やっぱり君が一緒に走ってやってくれ。俺じゃ、確実にビリだからな」
「よしりん……」
「治人、純兄と一緒に一等賞取れよ」
私が治人の頭を撫でながらそう言うと、治人は悲しそうな顔で、黙ってこくりと頷いた。
「ちょっ治、ちょっとこっち来い」
すると純輝がそう言って治人を表に連れだした。一人になった私は夕食の準備を始めた。
さくらは大学生の今、看護師の頃のように夜出かけることはまずないが、授業に実習にと帰ってくる時間は遅い。必然的に家にいる私が家事をすることになった。そんな「主夫」の生活も、子供たちにはどう映っているのだろう。そう考えながら剥いた玉ねぎは、いつもより目にしみた。
作品名:ボクのプレシャスブルー 作家名:神山 備