サーガイアの風見鳥
2.上条
萬田が席取りをし、上条が"とりあえずビール"を頼み、それから高橋がメニューを広げる。いつも通りだ。高田馬場の行きつけの居酒屋は、平日の夜ともなれば学生たちでごった返す。暖色系の照明は昭和ノスタルジー嗜好で、レトロに作られた店内に黄昏時のような雰囲気を作り出しているが、外は夜中だ。四人掛けのボックス席に座り、”とりあえずビール”をちびちびと飲んでいると、控えめな照明も相まって、だんだんと眠くなってきた。店内には、半世紀も昔の歌謡曲がわざと音質を悪くしたスピーカーを通じて流れている。萬田が最初にこの店を紹介してくれたとき、俺はてっきり由緒ある老舗の居酒屋かと思ったのだが、実のところ最近出来たばかりの全国チェーン店だという。上条が、テニスで日焼けした首筋にぶら下げたドッグタグのレプリカをいじりつつ、誰がこんな演出を喜ぶんかねぇ、とバカにしたように言ったものだが、いつ来てもこの店は繁盛しているのだった。
「砂が入ったらヤバくないか」
「ヤバくはねえっすよ。洗えばいい」
「洗うだけでいいのか。汚くなくね?」
風向きが良い気がしたので、久々に友人たちの誘いを受けて街に出てみたが、気分は浮かなかった。半年前までは、テニスの話か、教授の悪口か、女の話しかしていなかった連中が、いつのまにか説明会がどうだの、エントリーがどうだの、と、暗号のような会話に耽るようになっていた。数ヶ月後には、そんな話も出なくなるのだろうか。鑑みるに、就活生というやつらはなにか独特の雰囲気を持っている。まるで、なにかのゲームのファン集団のようにも思える。専門用語を並べ立て、正否を云々しては一喜一憂する。夏まではテニスバカだった奴も、代返屋だった奴も、ナンパ師だった奴も、自称ロリコンだった奴も、急に所作や顔つきまでが一緒くたになった気すらする。同じ色のスーツを着ていなくても、だ。
「そういえばお前もホクロあったよな」
「……えっ?」
振り向くと、上条がにやけ顔でこちらをのぞき込んでいた。短く切った髪は黒く染め直し、少しだけ日焼けしている。意外と柔らかそうに見える唇の端が歪んでいて、白い歯がちらりと覗いている。
「こいつさぁ、ちんこの根本にホクロあるんだぜ」
上条が大げさに言って、萬田と高橋が吹き出した。上条は少しイカれた奴で、この季節にアーミー柄のタンクトップ姿で外を歩き回る。程良く鍛えられた体躯は、筋肉が隆起して硬さと柔らかさが共存しているが、中身の方はまったくの軟派だった。小さな大学だから、出席は各自が授業後に教授の手にした出席簿にチェックを入れるという形式なのだが、素知らぬ顔で三、四人分のチェックを書き込むことに妙に長けていた。たまに出席カードを使う教授がいても、彼は無骨なデザインの自慢の財布に何枚も出席カードをストックしていて、小遣い稼ぎに余念がない。
萬田が口を開く前に、店員が鳥串の盛り合わせを運んできたので、上条が腕を伸ばしてそれを受け取った。目の前に上条の腕があって、視界の端には皺の寄った腋が見えた。飛蚊症のゴミがそれに重なっている。
「それホントすか。ちんこのとこに?」
萬田が何故か呆れたような顔をしている。上条は焼き鳥串を頬張って、白い歯で肉を噛みするすると串を抜いた。肉と歯の間から、肉汁が染みている。
「ホントホント。な?」
「え、ぼ、僕? そ、そういうこと言うなよ……」
「照れんな気色悪いから」
上条が俺を小突くと、萬田と高橋が大いに吹き出した。上条も笑う。焼き鳥を食いながら笑うから、案の定むせかえって、小さな肉片を吐き出してしまった。なんとなくそれを指先で触れる。
「よく暗がりで、ホクロなんか見えたな。マンコのとこだろホクロあったの」
高橋がバカなことを問うと、萬田は嬉しそうに
「電灯の下でヤったんすよ。めちゃ濡れてました」
「こいつダメなんだよこういう話。酒がまずそうだ」
上条がバカにしたように言うと、萬田は意地悪な笑みを浮かべた。
「別にいいじゃないっすか。ねー、先輩」
俺に視線を合わせて、萬田がにかっと笑った。もうアルコールが回ってきたのか、動悸が速くなった。
「ところで、例の山村さんって、どうなんだ?」
「ん、ああ。普通の人っすよ」
上条と萬田がふいに交わした短い会話は、この店に入ってから数時間経ってようやく、俺にも内容の飲み込めるものだった。というより、そのためにわざわざ萬田を呼び出したのだ、と思い起こすにつけ、今日も頭はあまりよく働いていないようだ。
「先輩、ホントにいいんすか? あの会社、正直微妙だし」
「え、び、微妙、って?」
テニスはここにいる四人のうち誰よりも上手い萬田だが、それ以外のことに脳みそがまともに動いているところを見たことはない。本来なら二年生なのだが、留年して未だに一年生をやっている。話の要領を得ないのも常だ。
「金っすよ。やってることも地味だし」
「いやいや、こいつには向上心とかないからな」
俺に先んじて上条が言うので、俺は曖昧に頷くしかなかった。萬田は呆れ顔で、
「まあいいや。連絡先は、この前メールした通りっすから。OB訪問ってどうやるのか知らないけど、一応俺の親戚なんで、そこんとこはどうかよろしく」
よろしく、とは何のことか分からなかったが、分かったよ、と答えておいた。
ぬるま湯のような温度の暖房のせいで、今日はやたらと酒の周りが速い。三人の男たちの顔が、段々と見分けがつかなくなってきた。音はいろいろと聞こえていて、ひとつひとつの聞き分けは出来なかったが、俺の身体は機械的に相槌を打っているようだった。上条は終始にやにやしていて、帰りがけに萬田と、なぜか俺の妹の話をしているのがやたらと印象に残った。上条の別れの言葉は、「妹さんにメール返しておけよ」だった。料理の味はよく覚えていない。