サーガイアの風見鳥
風向きがどうにも気になる、というようなことを冗談のつもりでミニブログに投稿したら、こちらもまた冗談のつもりだろう、風見鳥でも据えればいい、との返信を貰った。風見鳥。そんな発想はなかったな。でも、悪くないかも知れない。俺の部屋にベランダはないが、窓の外には転落防止用の鉄柵が張り出している。小さな風見鳥なら、ここに据え付けることが出来るかも知れない。朝起きて、風見鳥がなにか不穏な風を感じているようだったら、そのまま寝る。風見鳥の様子が快調なら、大学に行くなり、レポートを仕上げるなり、テニスに興じるなり、仲間と酒を飲み明かすなりすればいい。そういうわけで「風見鳥」をネットで探すことにした。本物の風見鳥よりも先に同じ名前の成人向け漫画がヒットしてしまい、それを買ったり読んだりしているうちに数日経ってしまったが、一週間のうちにはプラスチックの安い風見鳥を通販サイトで見つけ、早速注文した。届いたそれはセンスの悪い赤いプラスチックのおもちゃで、デフォルメされた子どもっぽい鳥の板でしかなかった。作り付けが悪いのかきれいにくるくるとは回転せず、今にも柄からはずれて落ちてしまいそうだ。しかも鉄柵に取り付けるためのパーツが見あたらないので、仕方なく余っていた水色のビニール紐と白いガムテープでぐるぐる巻きにして固定したので、少し強い風が吹くと鳥だけでなく柄ごとぐらぐら揺れてしまう。そのたびに妙に落ち着かない思いをするはめになった。そして、ようやく風見鳥の不安定な揺れぶりに慣れ始めた頃には、周囲では就職活動がピークを迎えていたようだった。
この俺が連日連夜企業に「就職活動の成功を」祈られるくらいに、ここ最近の風向きは悪い。赤い風見鳥が揺れている……回転するだけでなく、鳥の形の板が柄から外れそうな不安定な揺れと、即興の固定処理によって柄が鉄柵からずり落ちそうな気持ちの悪い揺れ。突然ぐるぐる、と猛烈に回ったかと思うと、全体がゆらりゆらりと左右に振れ、また急に反対向きに回ったりする。鳩サブレーのようなかたちの、少し厚みのある安っぽい鳥型の板。ホクロのような真っ黒い目が、ペンキで杜撰に塗られている。風雨に晒されて、全体がもう汚れ初めている。ガムテープは何度か巻き直したが、そろそろまた貼り替える必要がありそうだ。日の光を浴びて、赤い鳥が白く輝いているのが見える。じわりと身体が暖かくなる。日当たりの悪いこの部屋に、まともな日光が差し込むのは、24時間のうちでもこの時間帯だけだ……真っ黒なディスプレイにも、日が当たっている。スタンバイモードを示す橙色の光が点滅している。古雑誌や脱ぎ散らかした服、包装紙やろくに読んでもいない本で埋まった狭い部屋の全体が浮かび上がる。
朝になっていた。
ふるふると頭を振って、壁にかかったアナログ時計を覗きみる。日の出の時間か。嫌な動悸は収まっていたが、どういうわけか今は心臓にずっしりと重いような変な違和感がある。しばらくおとなしくしていても、それは収まらず、かといって酷くもならなかった。視野はぼんやりとして、全身に浮遊感があったが、妙に意識ははっきりしていて、すらすらと頭の中に文字が流れる。スタンバイモードのコンピュータを起動させると、相変わらずメーラーソフトの白い画面がディスプレイに表示されている。どうやらフォントをむちゃくちゃにいじってしまったらしく、文字化けを起こしてメールの文面は判読出来なくなっているが、その短さは見た目でも分かる。
俺が数週間前にエントリー・シートを送ったこの企業は、選考結果通知の予告時間から三時間も遅れて、たったこれだけの短いメールを寄越してきたわけだ。癪に障ることに、俺はこの企業のためにわざわざ新しいノートPCを購入していたのだ。エントリー・シートはWebサイト上で送れたのだが、どうもそのシステムが無駄に複雑だったらしく、「お使いのOSでは正常に動作しません」ときた。ユーザビリティもへったくれもない、デジタルディバイドを積極的に推進するような素晴らしい企業の姿勢にほとほと呆れ果てたが(それで新出版文化だの万人のwebメディアだのを謳っていやがる)、結局は彼らのために、システムに合うOSを搭載したノートPCを買うはめに陥った。お陰で、貯金の大半はなくなってしまったが、将来への投資だと自分に言い聞かせた。
"まさに既存の社会構造が崩壊し、価値観が変容し、新しい希望を人々が求めている時代に……古きを温め新しきを知る私には、御社と共に社会を再構築してゆく能力と熱意が……"
大きく息を吸い込み胸張り声張り熱弁を振るった俺を、友人は大いに笑った。笑い転げて、俺に演劇部にでも入れと言いやがった。大学のテラスで、カジュアルな装いの女子大生たちが俺の方を見ていた。眉をひそめたり、苦笑いを浮かべたりした。お前がそうやって演技すんの好きだって知らなかったよ、テニスしてる時より楽しそうじゃねえか……などとほざいた友人は、結局それから面接の練習を手伝ってくれなくなったんだった。まだ一度も面接に進んでいない。
俺は乱暴にマウスを動かしメーラーソフトを閉じた。白い背景に黒い水玉模様の並んだ色気のない壁紙が現る。ふと今日の風向きが気になったので、ちょっと首を伸ばして窓の外を見てみると、赤い風見鳥は例の如く不安定な揺れ方をしていた。その奥の小さなベランダに、派手な下着は干されていないようだ。向かいの部屋の窓から得られる情報は少ない。女子大生はまだ寝ているのかな。風向きがどうかと言えば、やはりこれはあまりよくない風向きなのではないかと思う。正直な話、俺は風を読むことに関しては、まだそこまで熟練していなかったが、あちこちの企業にエントリーシートを出したり履歴書を出したりしているうちに、だんだんと微妙な風向きの……色合いとでも言うべきだろうか、微妙な違いが読みとれるようになった気がする。その上で、今日の風向きはよくない、と断じた。外出はやめて、自室で過ごすべきだ。
こういう、よくない風向きのときのわりとベターな過ごし方を、俺はここ数年であれこれと試してきた。今日は、とりあえずその中でもっとも簡単かつ効果の高いものをやってみることにする。それは本当に簡単なことで、要するにオナニーなのだが、グラビアアイドルの写真集とか、アダルトビデオとか、そういったものを相手にするのは、いまいち新鮮味に欠け、余計に鬱々とした気分を増幅させるものだ。ああいったものは、結局は台本のある演技にすぎない。清らかな笑みをこちらに向けていようと、淫らなあえぎ声を聞かせてくれようと、そこにはなにか事務的な、世知辛いものを感じてしまう。見ていて辛くなる。彼女たちがにやけ顔の男たちから賃金を受け取るときの、むすっとした表情が見える。そういう時のために、俺はちょっと変わった「道具」を用意していた。