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サーガイアの風見鳥

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1.ヒラギノ



 かじかんで固くなった手のひらに触れる液晶ディスプレイの湿った表面は暖かい。ほのかな熱を感じた手のひらが、暗闇のなかでぼうっと光って見える。熱源も光源も、いまはそこにしかないが、いかにも頼りなく、俺の身体を芯から暖めてくれる類のものではなかった。着古した薄い寝間着は冷めた腿を暖めてはくれず、固いスリッパに包まれた足は冷たさを通り越してむしろ痛い。その足を、小刻みに揺らす。リズムに併せて、いつの間にか酷い動悸がしている。

 今夜もまた、丁寧に祈られる。ヒラギノ角ゴシックフォントの短い祈りの言葉だ。硬質で、冷たいかどうか? 液晶のディスプレイには変な柔らかさと暖かさがある。ちらちらと光って、静かに無数のドットを表示している。今頃、何人のバカが俺と同じ文言を目の前にしているだろうか。わざわざこんな夜中に覗いているやつは少ないか。フォントがヒラギノとも限らない。ふと思い立ち、WebブラウザのフォントをヒラギノからOsakaに変えてみる。それからMSゴシックやいろいろな種類の明朝体へも。ことり文字フォントやみかちゃんフォントにしてみると、他人行儀なお祈りの文言にも少しは可愛げが出てきたが、内容は一切変わらなかった。独りきりの狭い部屋で、なんだかやたらとおかしくなってきてしまい、けらけらと笑ってみたが、ドラマや映画みたいな軽快な笑いにはならず、どちらかというと口から息が変な風に漏れたような具合になって、おかしいのは頭の方じゃないのかと思いあたる。

 睡魔に身をゆだねてしばらくぼんやりしていると、安物のコンピュータは嘆息するように冷却ファンの回転を停止し、スタンバイモードに入った。ディスプレイがふいに真っ暗になると、就職活動が本格化する前に、十二分の準備に勤しむ友人たちを内心バカにしてせせら笑っていた頃の俺が、薄くなり始めた惨めな頭を下げて今さら謝りにきやがった。平身低頭、ぼさぼさの眉毛と、ひきつった出来損ないの笑みを浮かべるニキビ面。総毛立って見ていられりゃしない。ほっとけば飯を喰うかオナニーしかしないこいつに、くれてやる慈悲などないのだ。視線を逸らしたので、面は見えない。ダサい灰色のパーカーと褐色のズボン姿しか見えない。耳障りな猫なで声であれこれの言い訳を聞かされる前に、蹴り出してやらにゃなるまい。

 マウスを左右に小さく動かす。ディスプレイの光が目に映る。黒塗りのキーボード。油の染み着いたマウス。暗くて数字の読めない壁掛けのカレンダー。机の上に散乱した雑誌の山、あのタイトルは成人漫画誌。喰いかけのカップラーメンは、さて何時間前に喰ったものだったか、銘柄の文字がぼやける。視界はくっきりしたり、ちらついたり、ぼやけたりを繰り返す。コチコチとアナログ時計が時間の流れだけを暗闇の中から伝えてくる。長い間電池を替えてないから、そろそろあの音も途絶えるかもしれない。わざわざ部屋の電灯を点ける気にはならず、結局はデスクトップのデジタル時計を確認する。"02:14 Sun"だそうだ。途端に眠気が瞼まで沸き上がってくる。

 東京に出てくる前に、後に味わう様々の障害や挫折にまるで思い当たらなかったのは、俺の落ち度でも能力不足でもなく、すべて風向きの問題にすぎなかった。俺は常に自分の能力に自信を持っているし、目は二つとも常に前を見据えているし、視力も良くて霞んだことなど一度もない。夜目が利きすぎて困るほどで、帰り道に何度か青姦などしているバカな高校生に遭遇したのだが、先月なんかそいつらの性器の結合部までやたらとくっきり見えてしまい、ずいぶん気持ちの悪い思いをしたものだ。目の利く男はチャンスを逃さない、というのが俺の小さな信仰のひとつで、それはどんな些細な予兆や違和感さえ見逃さないからに他ならない。帰宅して着替える親父の手元の財布を覗き見て風俗の名刺を見つけ、風呂に入る前には洗濯カゴから妹の下着が少し派手になったことを察する。何故か夜中にゴミだしする隣室の女子大生の生ゴミの出し方から、彼氏との生活を類推する。そうこうしているうちに、テストの理想的な回答方法だろうが、面接にふさわしい応答の定型文だろうが、不思議と見えてくるようになるのだ。どうしようもないのは目に見えない物事だけ、風に目を凝らしても乾燥する他ない。

 東京は明らかに風向きが悪かった。ゴミゴミして、路地が入り組んでいるから空気が淀むのだろう。夜な夜な学生が駅前のロータリーで下呂や小便を垂れたり青姦したりするような場所だから淀むのか、淀んでいるから連中がそういうことをするのかは分からないが、淀んでいることだけは間違いあるまい。悲しいかな、その淀みや風向きの悪さが、明確に視認できる物理法則があればいいのに、お陰で俺の就活はさんざんだ。住んでいる場所が悪いのかと思い、壁の薄いボロアパートを出て山手線をぐるぐる回ったり、夜に裏原宿まで出かけて変わったグラフティを探したりもしたが、どこへ行っても独特の淀みがある気がして、いちいち落ち着かなかった。それで、大学も二年の冬に差し掛かるころには、そうやってあちこち歩き回るのもやめてしまった。面白い場所はたくさんあるかも知れないが、面白さだけ求めるならネットサーフィンをしていれば事足りる。見上げても星一つ見えない夜空の下を歩くのは、もう飽きた。日記形式のブログは性に合わないからやめてしまったが、チャットに似たミニブログは一回の投稿が短文で済むし、フレンド申請だのなんだのと面倒がなく面白い他人の書き込みが読めていい。自分の足では面白いグラフティは見つけられなかったが、ミニブログで閲覧登録した若いアーチストがグラフティ描きで、新作を描くたびに写真をアップしてくれていた。黒と紺のスプレーで大胆に、しかし細部をみればとても繊細に描かれた、ポップな星や月の絵。そこまですごい作品とは思わなくても、半ば惰性で賞賛のコメントを送る。

 そうやって一日中自室に籠もっていても、やはり風向きは気になるものだ。ろくに日の光が入らない小さな窓から外を見れば、揺れる電線が目の前にあり、その奥には街路樹の葉が見え、それからうちよりは少しはマシなボロアパートの窓が、意外なほど近くに見える。電線の揺れ方、街路樹のざわめき方、隣のアパートの女子大生が不用心に干した下着の揺れ方から、風向きは知れた。それは曖昧に、漠然と感じられる程度の違いだが、夕暮れどきの薄明かりの下、毎週月曜に干される紫色の卑猥で趣味の悪い特別な下着をぼんやり眺めているだけで、気もそぞろになり、胃がむかむかしてくる。風向きが悪いと、それだけで俺の能力は減衰し、教科書を読んでも、レポートを書いても調子があがらないから、特に酷い日はポテチとコーラを胃に流し込みながら、方々のエロサイトをサーフィンしてオナニーにでも耽るしかない。そういうときには、サークルの誘いも断る。テニスラケットはもう雑誌の山の下に埋もれてしまっている。ゴキブリの寝床にでもなっているかも知れない。精液を吸って黄ばんだティッシュはゴキブリに喰われるという話を、ネットのどこかで見かけた覚えがあるし。
作品名:サーガイアの風見鳥 作家名:不見湍