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コンビニ坂

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 植樹された楓は良い色をしているが、崖にさしかかればその代わりに見えてくるのは青く深い色をしたグラデーションの空と、大気と、ミニチュアのような(しかしやけに存在感の希薄な)遠くの街の姿だ。それは、開放を意味するのか。私は不安なのか。額がいやに熱い。両の目が、開いていることに疲れている。ゆるやかなカーブを描く白銀のガードレールは、日本刀のように鈍い光の曲線を見せてくれている。ただでさえこの付近の道には車の姿が少ないので、特にこの坂道をあえて通ろうという車の影は殆どない。排気ガスは丘の下に置いて来た。ふらつく足元が怖くて目をやると、スニーカーの靴ひもがほどけて踏みつけられ汚れてぺらぺらになっており、それが靴と足の間に入り込んでしまっていた。靴ひもの汚れが、毛玉のようになっていて、出来ればそれをすべて取り除いてやりたくなる。ふと、また身体の内側からなにかが飛び出てきやしないかと、不安になる。いや、不安になることが怖い。女の癖に無精にもスニーカーを履き潰さんとする自分を嗤ってみる。額は熱いままだ。

 カーブの途中、坂の折り返しのところで立ち止まり、生暖かいガードレールに手をついた。手に汗をかいている。息はあがっていないが、心臓が冷たく痛い。そう思うとすぐに全身の毛穴が開きそうな錯覚があったが、そのたびに身体の中でなにか清楚な花々の芳香がするような感覚が生まれ、少しは身体が静かになる。それを、坂の上でしばらく繰り返した。先生の処置のおかげだという。これのおかげで、私の身体から変なものが飛び出てくる心配は、さほどないそうだ。病院に行けば完治するし、放置していいものではない、と先生は言ったが、無理に救急車を呼んだりしなかった。世間は異能を恐れている。
 大きく息を吸う。冷たい空気が喉を乾かしつつ冷やし、肺を膨らませてくれる。が、その肺がぶつかるのかどうかは知らないが、心臓の鼓動もまた膨らむ気がする。そうなると、身体のなかはまるで空気が固まったかのように痛くなった。エーテルが無垢すぎるあまり、色々な色にまみれて汚れ切った私の魂を痛めるのか。しかし、吐く息はどうなのだろう。そこにはなにが含まれているのか? もしもアスマが含まれているのなら、世界に満ちているエーテルは無垢ではなく、"世界"という虚構に隠された世界の総体としての人間一人一人の混ぜこぜになって生暖かいアスマではないのか。私はなにを吸っているのだろう。 あの処置、あの先生、あの翠色の光、あの……動物磁気。私の身体にも吹き込まれたのだろうか。

 結局、私は感情を恐れている。暴れ回り、かたちを変え、私のプライドを内側から破壊し、あらゆる記憶を混濁させ、心臓を冷たく猛らせるものだ。偽善と偽悪、倫理と感情がせめぎあう……あるいは、そのように相反するものとして解釈出来てしまうほど混ざり合った感情の渦として肉の内に満ち満ちるもの。先生は、私の異変の明確な原因については口を濁してくれた。というより、そんなものは"あってない"ようなものなのだろうか。思うに、先生がなにかを口にしてくれたならば、それは私の原因になってくれただろう。先生は異能の研究者、あるいは異能使いそのものとして、優しい人ではない。

 夕日を背にし、眼下に広がるエーテルの奔流を前にして立つ。記憶は無理に飛び出してきて、さまざまな像を脳内に投げ込む。見たことのあるもの、ないもの、思いもよらないもの。どういう訳か、醜い男たちに犯される先生の華奢な身体。背中だけが見えず、気になる。つぶつぶでどろどろした卵色の吐瀉物がぶちまけられた夜の駅の多目的トイレ。あるいは、多目的トイレにぶちまけられた、太陽みたいなかたちになった吐瀉物。ラーメンと酒を一気に腹に放り込んだのだろうか。ナルトは四枚だ。男の声。姿は女。歪む。そこに吐瀉物が重なる。気持が悪い。いつもするように、そのイメージを別のイメージでかき消そうとする。吐瀉物を燃やし尽くし消し炭にする大爆発。降り注ぐ核爆弾。爆火の花が吐瀉物になる。男の唇。どこかの観光地で観た、黒くそそり立つ慰霊碑。

「長崎ではなかったですか?」

 振り向くと、道を挟んだ向かい側に木々で鬱蒼とした小さな公園があり、その入り口にこぎれいな老婆が立っていた。皺の目立つ厭に白い顔に、切れ込まれるようにして光る深く黒い瞳の、虹彩の鋭い筋がはっきり見えて私はぞっとする。額は広く、漫画の猿を思い起こさせるような深い皺が刻まれている。鼻は小さいが、鼻孔がばかに大きく、唇のあたりも皺が多く、異様に白い化粧がその筋に溜まってもいるのだが、口紅は若々しさを感じさせる赤であり、かつ唇自体も瑞々しくぽってりしている。僅かに歯が覗いているが、白磁のように滑らかだ。そこだけ見たら、若い娘のようでもある。ウェーブがかった白髪は、丁寧に手入れをされているようで、琥珀色のブローチとのコントラストが美しい。しかし、唯一右耳の少し上あたりで、毛が数本てんでばらばらの方向に飛び跳ねていた。耳のかたちは、これいって特徴はないのだが、穴のあたりの構造が妙にグロテスクに映る。紫色の大きなイヤリングがぶら下がっている。首筋は、フリルがふんだんに使われたブラウスに隠されてよく見えないが、のど仏の近くに小さなホクロがある。何故かここのあたりだけ化粧が溶け出していて、気持悪い案配だ。濃い紫色の、ごわごわしたワンピースを着た姿が、小鬼のようにも見えるが、このワンピースは極めて少女的な、装飾の多い可愛らしいもので、特に胸につけられた赤いリボンは、その色の冴えと、絶妙な愛らしさを持つ形状とが、やたらと魅力的だ。肩に蛇革のような素材のポーチをかけていて、その大きなチャックが少し空いており、中からハンカチのようなものが少しだけ顔を出していた。腕は頼りなく、山道に転がった細い枯れ木のように骨張って固くしわしわに見える。内股の足元を見れば、洋装に似合わぬ鼻緒が紫色の下駄を履いていた。時折、内股がぷるぷると震え、ひょい、と左足を動かして、右脚の脛の方に近づけると、器用に足の親指だけを動かしてちょいちょいと脛を掻いた。その間だけ、右足の五本の指が鍵盤をグリッサンドで叩いたように順序よくうねうねと動くのだった。そうやって、静かに佇む老婆。道路が二車線あるので、その姿は小さく見える。老婆の手がどうなっているのか、遠くて見えないのだ。

「長崎には行ったことがありません。大紛争のあとは、西秋津の方へは行けないようになったと言うではありませんか」

 我が動物磁気と共に言葉を吐き出すが、この距離だ、声は届いていないようだった。

「長崎でしょうとも」

 老婆が公園の奥に消えて行く。動悸が激しくなってきた。だが、再び背を向ける勇気もない。口の奥が乾いて、喉に鼻から下った粘液が引っかかりそうになる。ぐっと唾を飲み込んで、往来のないアスファルトの道路を渡った。
作品名:コンビニ坂 作家名:不見湍