コンビニ坂
見上げる天井の沁みは形状としては三日前と変わるはずがなかったが、気もそぞろに普段は読みもしない小説本を抱えて椅子をぎしぎしと揺らしていると、僅かに沁みの色が濃くなり、ふちが水滴を垂らしたあとのように見え、香料と汗と埃の混じった私の部屋の匂いの中にあの沁みの生臭いかおりが紛れ込んでいるような気分に襲われた。ぎょっとして雑誌の山に埋もれた小さな置き時計の方に目を泳がせたが、橙色の極光を反射するばかりだ。文庫本に散らされた沁みに落ち着かぬ心持ちで視線を走らせても、うなじと肩甲骨の間あたりでなにかが俄にうごめくような感触に気がとられる。あの天井の沁みは、たれて私のうなじを汚すだろうか。本を投げ出して机に突っ伏す。重ねるように置こうとした腕がノートパソコンに当たって痛い。視界は狭くなり賑やかな表装の雑誌たちがいつもより大きく見えるだけだが、代わりに二の腕からの布と消毒液の匂いに囲まれる。心臓は冷たく鼓動している。それを思い、眉間と頬がいやに固くなった。
私は病院には行かなかった。夜遅かったこともあるが、なにより、小白川先生に薦められた病院は、私にとっては未知の世界で、陰鬱な洞窟、入り込んだら戻れない秘密の墓所のように思えた。倒れた場所が、先生の私室であったのは幸いと言うべきだろうか。小白川先生は若いが、誰もが彼女の慌てる姿を想像出来ないと笑顔で口にするほどの人だった。同じ女性だったことも、あるいは運命に感謝するべきか。異性の前で、自分の身体からなにか知らぬ変なものが生えてくるなど、想像したくもない。
あの時先生は動揺していたか? 私にそれを察する余裕はなかった。朧げに、むしろ気持悪いほど冷静な彼女の声を覚えているくらいである。子どもを諭すような声だった。赤子をあやすようでもあった。不随意の精神活動や神経系の暴走に誘発された、病的なエーテル/舎密反応現象であるのだと言う。その筋の雑誌記者である私は、人間の魂が時に驚くべき現象を引き起こすことを知識として冷静に理解していたが、それにしては私の二の腕の痛みは刺すようであったし、腹は熱く重く、心臓は凍てつくほどに暴れていた。死の観念が私を襲う、あるいは今の社会における異能使いに対する様々な世論的感情に絶望的な思いを至らせる前に、私は小刻みに震える右手で必死に、しかし弱々しく青林檎色の先生のブラウスを握りしめていた。感触は滑らかなものか、と思ったがなにも感じない。手の芯が冷たい。先生は私の手を握りしめて、ゆっくりとさすった。左手で私の手のひらを下から支え、右手のしなやかな指のひとつひとつを私の手の甲に馴染ませるように、さすった。先生の無骨な腕時計の堅いバンドが私の皮膚を擦るので、じわじわと痛くなる。先生は首に映画に出てくるような"未来的デザイン"の赤いチョーカーを着けていた。 表面がつるつるしていて、金属質で、緑色の小さなランプが可愛らしく並び、おもちゃのような鍵穴がついていた。
度重なる取材の中でこの若く愛らしい(とはいえさほど美人ではない)先生への信仰に似た信頼を育てつつあった私は、手際の良い先生の処置と、そのおかげで死の心配はまるで無くなったという彼女の言葉を、殆ど鵜呑みにするように信じた。先生の手際の良さは、慣れ親しんだ日々の行いのような滑らかさを持っていた。先生が買いだめしていた包帯の円筒状のケースが真っ黒い色だったことと、処置の中で先生が虚空に灯らせた仄かな翠色の灯りと、突然私の両二の腕から生えてきた灰色でなめこ汁のぬめりに似た茶褐色の液体を吹き出す妙な肉の角のようなものと、果たしてどれが一番衝撃的だっただろうか。驚くべきことに先生の睫毛は意外と長く、次に自分の鼓動の異常な早さが気になった。一つ目の驚きは、先生の頬の肌が思ったより荒れているのを見つめているうちにどうでもよくなり、二つ目の驚きの方は未だに抱えたまま、私は腹の虫と焦燥感に追い立てられながら夕暮れの中アパートの所々腐食して穴の空いている弱々しい階段を駆け下りた。心臓が動いている。私は振り返るのをやめて、粗雑な舗装のアスファルトを踏みしめた。
後でコンビニに入って微妙な空気の匂いの差に気づくまで、なにも感じずなにも思い至らないほどに、外の気候は安らかだった。大紛争前の置き土産だというセンスも機能美もないコンクリートの山脈の端に薄い橙色の陽が沈んでゆく。光に飛び込んで行くのはなんの鳥だろうか? 狭い校庭にひしめく運動部の学生の群れの声に気取られるうちに鳥の名すら思い出せなくなる。過剰な装飾のせいで凸凹したマンホールは足裏に気持いい。隔靴掻痒とは言うけれども。
目的地はコンビニだったが、それもアパートの階段を下りてから決めたことだった。時間は有り余るほどあった。駅前の繁華街に向かう道とは逆に行けば、大紛争で出来たという巨大な崖を補強して作った道路がある。崖に沿って白銀の綺麗なガードレールが輝いており、そこに立てば遠くの街と海まで一望出来る眺めがある。大紛争の時の巨大な異能戦闘で断層が発生したのだと言うが、俄には信じ難い。とはいえとりあえず、今私が左手で撫でている傷だらけの錆び付いたガードレールに沿っていけば、やがてはそこにたどり着く。ガードレールをなぞって歩くのだ。それがなにかとても楽しいことのような気がする。
大気には、目に見えないエーテルも含まれているのだとオカルチストたちは言う。異能科学者たちも言う。エーテルとは有機化合物ではなく、むしろその名の由来となった天空の精気のことを指すのだと、ギリシアの異能使いたちは胸を張る。絶壁を目指して丘を登ると、吹き下ろす風に髪を攫われることがある。そこにも、エーテルがあるのだと言う。エーテルは無色な魂、無垢な心だと小白川先生は教えてくれた。それが凝固して人の魂になる。肉がそれを閉じ込める。肉の内にもエーテルは満ちているが、逃げられないうちに、理性と知性によって汚れた魂に染め上げられ、色の着いたエーテル、アスマになる。アスマは瘴気、動物磁気、感情の渦、偽善と偽悪の感覚機械。人を動かし、世界を穢すと共に、世界に穢される。愛しさのみなもと。身のうちに満ちる排気ガス。だが、心が軽くなれば、空になれば、アスマもまた軽くなるという。重たく熱いアスマに相対して清く涼やかに感じられるエーテルが、そんな軽くなった心に直接届いてくれるような幻覚を覚える異能使いがいるという。延々と果てのない坂を上って、胸の痛みと共にすべてのアスマを吐き出したら、また無色透明に還れる気がするのだという。先生は、それは単に錯覚に過ぎない、と彼女にしては珍しく冷たく言った。どのくらい坂を上れば、そんな錯覚に浸れるのだろうか。
私は病院には行かなかった。夜遅かったこともあるが、なにより、小白川先生に薦められた病院は、私にとっては未知の世界で、陰鬱な洞窟、入り込んだら戻れない秘密の墓所のように思えた。倒れた場所が、先生の私室であったのは幸いと言うべきだろうか。小白川先生は若いが、誰もが彼女の慌てる姿を想像出来ないと笑顔で口にするほどの人だった。同じ女性だったことも、あるいは運命に感謝するべきか。異性の前で、自分の身体からなにか知らぬ変なものが生えてくるなど、想像したくもない。
あの時先生は動揺していたか? 私にそれを察する余裕はなかった。朧げに、むしろ気持悪いほど冷静な彼女の声を覚えているくらいである。子どもを諭すような声だった。赤子をあやすようでもあった。不随意の精神活動や神経系の暴走に誘発された、病的なエーテル/舎密反応現象であるのだと言う。その筋の雑誌記者である私は、人間の魂が時に驚くべき現象を引き起こすことを知識として冷静に理解していたが、それにしては私の二の腕の痛みは刺すようであったし、腹は熱く重く、心臓は凍てつくほどに暴れていた。死の観念が私を襲う、あるいは今の社会における異能使いに対する様々な世論的感情に絶望的な思いを至らせる前に、私は小刻みに震える右手で必死に、しかし弱々しく青林檎色の先生のブラウスを握りしめていた。感触は滑らかなものか、と思ったがなにも感じない。手の芯が冷たい。先生は私の手を握りしめて、ゆっくりとさすった。左手で私の手のひらを下から支え、右手のしなやかな指のひとつひとつを私の手の甲に馴染ませるように、さすった。先生の無骨な腕時計の堅いバンドが私の皮膚を擦るので、じわじわと痛くなる。先生は首に映画に出てくるような"未来的デザイン"の赤いチョーカーを着けていた。 表面がつるつるしていて、金属質で、緑色の小さなランプが可愛らしく並び、おもちゃのような鍵穴がついていた。
度重なる取材の中でこの若く愛らしい(とはいえさほど美人ではない)先生への信仰に似た信頼を育てつつあった私は、手際の良い先生の処置と、そのおかげで死の心配はまるで無くなったという彼女の言葉を、殆ど鵜呑みにするように信じた。先生の手際の良さは、慣れ親しんだ日々の行いのような滑らかさを持っていた。先生が買いだめしていた包帯の円筒状のケースが真っ黒い色だったことと、処置の中で先生が虚空に灯らせた仄かな翠色の灯りと、突然私の両二の腕から生えてきた灰色でなめこ汁のぬめりに似た茶褐色の液体を吹き出す妙な肉の角のようなものと、果たしてどれが一番衝撃的だっただろうか。驚くべきことに先生の睫毛は意外と長く、次に自分の鼓動の異常な早さが気になった。一つ目の驚きは、先生の頬の肌が思ったより荒れているのを見つめているうちにどうでもよくなり、二つ目の驚きの方は未だに抱えたまま、私は腹の虫と焦燥感に追い立てられながら夕暮れの中アパートの所々腐食して穴の空いている弱々しい階段を駆け下りた。心臓が動いている。私は振り返るのをやめて、粗雑な舗装のアスファルトを踏みしめた。
後でコンビニに入って微妙な空気の匂いの差に気づくまで、なにも感じずなにも思い至らないほどに、外の気候は安らかだった。大紛争前の置き土産だというセンスも機能美もないコンクリートの山脈の端に薄い橙色の陽が沈んでゆく。光に飛び込んで行くのはなんの鳥だろうか? 狭い校庭にひしめく運動部の学生の群れの声に気取られるうちに鳥の名すら思い出せなくなる。過剰な装飾のせいで凸凹したマンホールは足裏に気持いい。隔靴掻痒とは言うけれども。
目的地はコンビニだったが、それもアパートの階段を下りてから決めたことだった。時間は有り余るほどあった。駅前の繁華街に向かう道とは逆に行けば、大紛争で出来たという巨大な崖を補強して作った道路がある。崖に沿って白銀の綺麗なガードレールが輝いており、そこに立てば遠くの街と海まで一望出来る眺めがある。大紛争の時の巨大な異能戦闘で断層が発生したのだと言うが、俄には信じ難い。とはいえとりあえず、今私が左手で撫でている傷だらけの錆び付いたガードレールに沿っていけば、やがてはそこにたどり着く。ガードレールをなぞって歩くのだ。それがなにかとても楽しいことのような気がする。
大気には、目に見えないエーテルも含まれているのだとオカルチストたちは言う。異能科学者たちも言う。エーテルとは有機化合物ではなく、むしろその名の由来となった天空の精気のことを指すのだと、ギリシアの異能使いたちは胸を張る。絶壁を目指して丘を登ると、吹き下ろす風に髪を攫われることがある。そこにも、エーテルがあるのだと言う。エーテルは無色な魂、無垢な心だと小白川先生は教えてくれた。それが凝固して人の魂になる。肉がそれを閉じ込める。肉の内にもエーテルは満ちているが、逃げられないうちに、理性と知性によって汚れた魂に染め上げられ、色の着いたエーテル、アスマになる。アスマは瘴気、動物磁気、感情の渦、偽善と偽悪の感覚機械。人を動かし、世界を穢すと共に、世界に穢される。愛しさのみなもと。身のうちに満ちる排気ガス。だが、心が軽くなれば、空になれば、アスマもまた軽くなるという。重たく熱いアスマに相対して清く涼やかに感じられるエーテルが、そんな軽くなった心に直接届いてくれるような幻覚を覚える異能使いがいるという。延々と果てのない坂を上って、胸の痛みと共にすべてのアスマを吐き出したら、また無色透明に還れる気がするのだという。先生は、それは単に錯覚に過ぎない、と彼女にしては珍しく冷たく言った。どのくらい坂を上れば、そんな錯覚に浸れるのだろうか。