薊色花伝
* * *
薊堂を再開させて既に三日。初日に心霊写真まがいの依頼が来た以外は平和な毎日が続いていた。
広い窓からは揚々と春の日差し。敷地内に桜の木はないはずなのに、どこからか迷い込んだ花弁が窓の外を流れていく。
――今日も暖かいなぁ。
「翠仙ちゃん、紅茶と珈琲と煎茶、どれがいい?」
春休みの課題を広げていると、ソファの向こうから呼びかけられた。
「ええと。じゃあ、紅茶」
「良かった。珈琲って言われたらどうしようかと思った」
実は今切らしてるんだ、と首を竦める。ところでその紅茶はちゃんと飲めるものなのだろうか。茶葉にだって賞味期限はあった気がするのだけれど。
今日も特に用事のないまま、応接室に居場所を落ち着けている。結局のところお店の殆どは常葉まかせなのであたしは座ってるくらいしかすることがない。
部屋に下がっても出掛けてもいいと言われたけれど、さすがにそうもいかない。それに、今の所この建物の中では、幼い頃に馴染んだこの部屋が一番居心地が良いこともある。
「そういえば、新学期はいつからなんだっけ?」
まだ半分も空欄のテキストを覗き込みながら常葉が尋ねる。あたしは背筋を伸ばす。まるで油切れでも起こしたブリキのおもちゃのように動きが悪い。
「来週から。学校が始まったら日中は貴方に任せることになるけど、それでいい?」
「勿論、留守は受け持つよ。それに暫くは開店休業だろうしね」
「やっぱり昔は忙しかったの?」
紅茶の香りを確かめながら彼に問う。とりあえず飲んでも平気そうだ。
「うーん、どうだろう。仕事も先代――桂一朗さんの気紛れみたいな所があったから」
常葉は軽く首を傾げた。謙遜というよりは本当に思い当たらないという感じ。
ふと、祖父の微笑を思い起こす。ふわりと笑うのにどこか鋭い、それでいて屈託のない微笑。社長然とした、従うことに戸惑いを憶えさせない瞳。本人曰く『引退した』今は現役より鋭角さも緩んだものの、瞳の色だけはいつまでも褪せない。
幼さを脱した今だからこそ、あの人の偉大さはひしひしと伝わってくる。
そんな祖父が留めた大事な場所。大切な空間。
「気紛れ、ねぇ。なのにどうして貴方はこんな店で働いてるのかしら……あ、そういえば」
あたしはふと、テキストから目を放して常葉を見た。彼はちょうど自分の紅茶を事務机に置いたところだった。声が自分に向けられたものだと気がついて振り返る。
「あたし、あなたの下の名前知らなかった。何て言うの? ここでどれくらい働いてる?」
予想のつかない質問だったのか、僅かに表情が呆ける。あたしはちょっと気分を悪くする。
そんなに、小娘が質問するのは邪魔なものだろうか。一緒の職場で働く者同士なのだから、素性に興味を持ったって構わないはずだ。
あたしの不機嫌が通じたのか、常葉は可笑しそうにくすりと笑う。
それからゆっくりと口を開いて、
「僕は…」
リーン。
声を遮るように、一階でベルの音がした。来客が鳴らすカウンター上の呼び鈴だ。立ち上がろうとすると、常葉がそれを片手で制する。
「僕が出るからいいよ」
椅子に腰を落ち着け直して、少し眉を寄せる。
なんとなくだけれど、音より一瞬早く常葉が視線を向けた気がしたのは気のせいだろうか。