薊色花伝
ふと、お醤油と味噌のいい香りが漂うのに気がついた。どうやら匂いの元は応接室らしい。昨日の夕方から何も食べていないから、まるで消化器官に直接働きかけるかのような攻撃力だ。ふわふわしていた頭も急に冴えてくる。
「どうせ朝ご飯も準備してないと思ってさ。持ってきたから食べるといいよ」
手招きされて入った先には来客テーブルの上に並べられた朝餉の用意。つやつやのご飯に赤味噌のお味噌汁。タッパーからお皿へ装われる御浸しに卵焼き。アジの開きはまだ湯気が昇っていて、大根おろしまで添えてある。
判で押したみたいな、完璧な和食の朝ご飯。もしかしなくても目の前の彼が作ったに違いない。言いたいこともあったけれど、お腹が空いているのも事実なので静かに戴くことにした。
あたしが箸を取ったのを見て、常葉は安心したのか掃除へと戻って行った。
それにしても、なんて穏やかな朝なんだろう。
環境が違うだけでこんなに平静な気持ちでいられるのなら、もっと早くこっちに来れば良かった。祖父の助言に感謝しながら、テーブルの前で両手を合わせた。
朝食を摂り終える頃には建物内の掃除も佳境にさしかかっていた。何か手伝うことはないかと一階に降りていくと、常葉はカウンター横に立てかけてあった木の板を担いだところだった。
板を抱えて玄関の外へ。そうして、観音開きの扉の上にそれを翳す。
表面に書かれていたのは懐かしい文字だった。木目の鮮やかな一枚板。
その上に墨字で力強く、『あざみ堂』の文字。
「看板を掲げるのも久しぶりだ」
朝陽の下で、常葉が感慨深く呟いた。