薊色花伝
8.新しい居場所
桜の花弁が散っていく。
三階から見下ろす窓の外。見えるのは稲荷の小社と、裏の家から舞い込んでくる薄紅の嵐。最近は下ろしっぱなしだった自分の黒髪をきっちりとひとつに結って、重たい紺色のセーラー服に袖を通した。
清清しい朝だ。今日は何故だか普段より三十分も早く目を覚まして、珍しく緊張でもしているのだろうかと自分で首をひねる。
「おはよう」
階段を下りていけば助手で部下で職場の先輩の彼が出迎えてくれる。掃除の時だけ首の後ろで縛る余り毛が、獣の尾のようにふわりとしなった。
「おはよう。朝食出来てるよ」
「ありがと」
トントンと軽快に、水拭きに精を出す彼の横をすり抜ける。扉を開けて漂う、焼きたてのブレッドとバターの匂い。それから目を奪われる、オムレツにイタリアンサラダ。
先刻までカーぺットの手入れをしていたはずの彼がいつの間にかテーブルを整えてくれる。あたしが起きてきたら朝食を出す。この手順もすっかり板について来ているようだった。
「そういえば、伊瀬さんからお礼の手紙が来てたよ。お陰様で何事もないらしい」
林檎に果物ナイフを入れながら彼が言う。あたしは小さく頷く。
「そう。良かった」
それから自動的に先日の華崎邸での遣り取りを思い出していた。
彼――常葉は『この場所を出て行くべきか』と問うたけれど、反対にあたしが居てもいいのかということを確認するのを忘れていた。
こうして朝食を用意してもらったり、相変わらず執務机に座ることを赦してくれるのだから信じてもいいのかもしれない。勿論、否定が無いだけで肯定とは言い切れない。
それに、あたしが幼いことに今の所変わりはないけれど。
そう、あたしは何も変わらない。周りの環境ばかりが目まぐるしく変化していく。
例えば同じ学校に向かうにも関わらず、今日からはもう違う教室を目指すように。例えば新しく始めたバイトの助手が実は人間でないように。
それから――
「それから、」
思考を遮って彼の声がする。自分の言葉が洩れてしまったのかと、一瞬だけどきりとする。
「先代の社長からも連絡が」
「おじいちゃんから? どうして?」
思わぬひとの話題になって聞き返す。今頃は本家の縁側で庭の木々でも眺めている時間かもしれない、あたしが一番尊敬しているそのひとを思い浮かべる。
「浅見家の孫娘は――新しい社長は元気でやっているかって」