薊色花伝
刀と鏡を納めた社の、観音開きの扉にはしっかり錠前をかけた。
鍵は華崎さんへ託した。これから末永く手入れを怠らないことを頼み、もう二度と放してしまわないように。
きっとあのふたつの魂の寿命はそう長くない。もう社を閉ざしておく力は無いし、その意思を氏子へと伝える術も残っていないだろう。それでも、眠るように器だけに戻った後にどんな力も存在しなくとも、祈り願うという心は土地にも人にも平穏を導いてくれる。
今後、あれらの『妙なこと』が起こる心配はないでしょう。常葉の説明にじっと耳を傾ける華崎家の面々。祖父孫それぞれの、何かを察するような穏やかな微笑が瞳の奥に焼き付く。
「――ありがとうございました」
伊瀬さんが深々と首を垂れる。
「これで、安らかになれるはずです」
その言葉は安堵。先祖が奉って来たものを正しく保てることへの安堵かもしれない。或いは、幼い頃に見た彼女への。
呼んでもらったタクシーの後部座席に身体を沈める。同時に自分の身体が酷く重いことに気がついた。言霊を創るのは膨大に体力と精神力を必要とするのだと、改めて噛み締める。
遠ざかっていく森と、緑に囲まれた屋敷の影。バックミラー越しに眺めれば、見送りに頭を下げる伊瀬さんの姿が遠ざかっていく。あたしの意識と共に。
――いつの間にか夢の中にいる。
ううん。それは夢なのか、遠い思い出なのか。あたしは深い森の中にいて、心細さに涙を堪えていた。
耐え切れずにしゃがみこむ幼い少女を木漏れ日の中に見た。声をかけようか戸惑ううちに光が強くなっていく。
いつしか、涙を溜めているのは自分だった。物心ついたばかりほどのあたしが、祖父の目から離れて迷い込んだ鎮守の森。
好奇心で探検に来たはずの勇ましい少女はもう存在しない。そこにいるのはただ、大好きな祖父母と両親にもう一度会いたいと願う三歳の少女。
ああ、あの時は本当に最期の別れだと思っていた。神社の敷地の中の迷子なのに、小さな少女には今生の別れに感じていたんだ。
それをありありと思い出していると、新緑の陰がくらりと明るんだ。
太陽の白ではなく、蒼色の灯火。
振り向いた先には一人の青年がいる。
当時のあたしには見覚えのないひと。そしてその後も、幼い頃に逢ったことさえ薄れてしまった、薄色のスーツに黒髪の男。
『迎えに来たよ』
差し出されたてのひらが、あたしの涙を留める。首と袖口の釦がきっちり留められているのを見て、夏なのに暑くないのだろうかと見当はずれなことを思った。
初夏だった。引かれる指先が冷たく心地良い。薄青のワイシャツが日差しに優しかった。
『さあ、お祖父さんのところへ帰ろう』
柔らかな微笑みが、あたしの心を穏やかにさせる。
ふと、足許に目を向ける。彼の影は、まるで耳と尾のある獣のように見えて。
気がつけば彼の背に揺られている。あたたかく大きな背中は迷子の少女を眠りに誘った。そしてそのゆりかごは、今までに何度も憶えのある背中。涙はとうに引っ込んで、規則的に草を踏み分ける足音が心音と重なっていく。
押し付けた頬から伝わる、なだらかな呼吸。時々呼びかけてくれるあたしの名前。森のさざめき。日の光に紛れる彼自身の蒼色。
彼の背に揺られている。
そっと開いた瞼の先、彼のスーツの色が見えた気がしてデジャヴを覚える。
大きかった背中は先刻よりずっと現実的で。それでも頼ってしまえるような広さを備えている。
うとうとと、睡魔に負けて夢の中に逃げる。
一体何処までが思い出で、何処までが夢で、何処までが現実なのか。
比べられないままに、事務室のソファに横になっている自分が残った。