薊色花伝
「これで、終わりなのね」
平穏を取り戻した祠の前で、狐が――常葉が笑う。
「初仕事としては上出来じゃないかな」
ふと振り返る。その表情にも佇まいにも何ら変化は見られなくて、先刻の言葉が冗談だと言われれば騙されることが出来るくらいあまりに人間らしかった。
我知らずその足許を見下ろした。南天を過ぎた太陽は少しずつ影を伸ばしていた。その中に耳や尾がないだろうか、目が光らないだろうかと探しそうになる自分がいる。
あたしの心の中を覗いたかのように、彼は静かに目を細める。
「気持ち悪い? 出て行けというなら、僕はそれでも構わないよ」
それを真直ぐと睨み返して、それから興味が無い風を装って逸らした。彼が視界から消えて、確かめることが出来るのは声だけになる。
「言わないわよ、そんなこと。常葉はあの場所がいいんでしょ」
だって、その表情がどこか寂しそうに歪むものだから。
「そう言ってくれると、とても助かる」
振り向くことはしない。彼は笑っているだろうか、安心しているだろうか。
もしかして悲しんでいるかもしれない。自分だけの居場所だったあの場所に、また人間が入り込むことを。
それとも、喜んでくれるだろうか?それともやっぱり、迷惑に思うだろうか。
ふと、扉の閉じた祠を見る。ただの器に戻ってしまうであろうふたつの御神体。人間の心が離れて、息づいた魂さえ離れてしまうもの。
もしかしたら、あの場所だって、いずれ埃に塗れて朽ちていくのかもしれない。その前に取り潰されて跡形もなくなってしまうのかも。それは時間の経過だ。色も形もいつかは薄れ、見えなくなっていく。
結局のところ、何もかもが真新しいあたしが簡単にどうこう出来るものではないだろう。祝詞も満足に謳えない、親の掌の上に座ったままの幼いあたしには。
だけど、今は。
「……帰りましょう」
常葉の耳に届くかも分からないくらいに、小さな声で呟いたその言葉。
振り向いて見上げる。覗き込んだ眼が西日で金色に染まった。石段を降りていく背中を、見失わないように懸命に追いかけていく。
もう、足を取られることはない。