薊色花伝
「――きこしめせと、かしこみかしこみももうす」
暗闇が、しんと澄み渡っていく。
殆ど日の光を取り戻した社の前。長い祝詞を唱え終わって、ふっと息をつく。静まった二つの奉納品、いや、御神体。輝きを失ったままのそれらを眺めて、言い表せない不安に苛まれる。
まるで抜け殻のような。特に鏡のほうは、何のあたたかさも感じられない。
遅かったのかもしれない。灯火を削って探し回った彼女の情慕も、静かに待ち続けたはずの彼女の魂も。
落胆を見越してか、常葉が助け舟を出してくれる。
「ウブスナカミノハライは唱えられる?」
「うぶすなの――?」
掠れ声で問い返すあたしに代わり、彼が言葉を造った。
「高天原に神留座す、皇親神漏岐神呂美の命以て」
歌うようなしなやかな祓いの言霊。それは聞き覚えがあって、無理矢理に記憶の中から引きずり出して、唱える。
「あ――『かみあかりに、いついろのみてくらを、たてまつり』」
ざわり、木々が唸る。振り返りたい気持ちを押しとどめて、自らの瞳はふたつの御神体へと注ぐ。
ゆるゆると清浄な白色を取り戻していくのが分かった。煤けていた闇が剥がれ、その内に眠っていた光がこぼれる。
それは魂の色だった。
「下三千一百餘神鎮守氏神速に納受て」
「たいらげく、やすらげく。すめかみ、あまくだりまつる」
曖昧で自信なく小さくなる声を補うように、常葉があたしよりもずっと丁寧にやわらかに言葉を述べていく。それは祖父の言葉によく似ていた。不確かな記憶を呼び起こすには充分だった。
それでもあたしなんて完全とは言えないけれど。
助けてもらいながら、早くひとりで唱えられるようにならなければと漠然と誓った。
まるで鈴の音が響くかのように、清められる空気。それを震わせるのは、今や祝詞を謳う声のみ。
気がつけば、辺りは白い光に包まれている。
木漏れ日のような、昼間の月の輝きのような、しずかな温かさ。
いつかの日の出のようなやわらかい色の中に、いつのまにか二人の女性が佇んでいる。
どことなく似た気配を持つ、真っ白な女性。ゆるく結わえた髪、白無垢のような内掛け、指先までが光るように白い。
その髪には簪。ひとりは舞蝶の、ひとりは牡丹の。それぞれを耳の横に飾っている。彼女達は寄り添うように存在し、穏やかな微笑を称えていた。
やがて着物の裾からふわふわと光に溶けていく。
それはきっと、後悔などではなく。
「やおよろずのかみたちもろともに――きこしめせと、もおす」
言葉の最後を告げる頃には、辺りはもう日常に戻っていた。
さわさわと踊る新緑。緑に揺られる社。
ふっと手を解くその瞬間、かすかに有難うと聞こえた気がした。