薊色花伝
「かけまくもかしこき、いざなぎのおおかみ」
社の中に寄り添う刀と鏡。
身幅の広い、鍔に胡蝶の紋の入る日本刀。
表に獣と八重牡丹の刻まれた白銅鏡。
手を合わせると、たちまち森の空気が揺らいだ。
それは拒絶なのか、抵抗なのか。周囲を巻き込むように闇が、無が、延々と裾を広げようとしている。
「つくしのひむかの、たちばなのをとのあわぎはらに」
手が震える。言葉が滞る。たった数度呼吸を繰り返しただけなのに、汗が滲んでいる。
暑いんじゃない、冷たい汗。闇を思い出す恐怖。虚無が鼻先まで近づいている。慌てて紡ぐ祝詞で、かろうじて飲み込まれるのを防いでいた。
昨日読み上げたものと種類も違えば重さも違う。あれ程度では効きもしなかっただろうと、比べなくても察知する。きっと、彼がいなければ競り負けていた。
我知らず後ずさる。こんなことだったら、ちゃんと祖父に祝詞を教わっておくんだった。この数日間、付け焼刃程度に暗誦した言葉ではどうしても心許ない。深く深く息を吸って、自分を思い出す。
と、足許がぐにゃりと揺らいだ。緊張の糸が歪む。
――怖い。
たたらを踏むあたしの肩を、すぐ後ろから支える掌がある。
「翠仙ちゃん」
声だ。たった一週間一緒に居るばかりの、それでいて聞き慣れてしまった声。それはやわらかく落ち着いていて、あたしの足許を確かなものに回復させる。いつの間にか汗で歪んでいた視界がふわりと澄んでいく。
あたしは弱く微笑んだ。
「ありがとう。ちょっと疲れただけ」
振り仰ぐ彼の、常葉の顔。眉間に寄せられた皺は心配の色かもしれない。
うん。大丈夫。
あたしは今、ひとりじゃない。
あの闇の中のように、独りで消える恐怖を憶える必要はないんだ。
後押しする体温を確かめながら、真直ぐに前を見る。