薊色花伝
空が、暗い。
それは夕暮れの近さでも広がり始めた雲のせいでもなかった。
山道を登る。崩れの目立つ石段、参道の両脇に並ぶ木々。その中に紛れる、桜の蕾。黄昏が迫るはずの山の情景は色彩が強まっていた。焼き直した写真のように、乾く前の油彩画のように、青は蒼へ、緑は碧へ。蕾の目立つ桜はいつしか開き、時間を早めたみたいに花弁が揃っていく。
それでもあたしは、足を止めない。ピリピリと、空気が鳴っている。肌が粟立つ感覚。怯えなのか動揺なのかも定かではないけれど、神経が感じ取っているものが真実だと悟る。
やがて、その果てに深紅に染まった鳥居が見える。
坂道を登りきるのと瞬きとの瞬間は同じだったかもしれない。鳥居の下、石段の最上に足を下ろしたその刹那、辺りが一瞬で闇に包まれる。
違う、飛び込んでしまったのだ。あの石洞から滲み出ていた闇が、いまこの場所を飲み込んでいる。それなのに、あの時とは違う。その証拠に彼の後姿が見える。あたしはあたしのまま、自分の身体すら見失うことなく闇の中に立っている。
ふと、視界を何かがかすめた。
ふわりと横切るそれは薄紅の花弁。闇の中を照らすように、桜の花びらが降りしきっている。非現実的で幻想的な、春の宵。
目を凝らす。社が在ったはずの場所に真白い女性が浮かんでいた。左のこめかみに蝶の髪飾り。それが華崎さんの言っていた女性だと分かった。
奇麗だ。奇麗な、刀。
それを認識した瞬間に、闇が伸縮を始める。
闇を覆う蒼い光。洪水のような炎。そして昼間が戻ってくる。
まるで幻かと思えるほどの一瞬。女性は最後に微笑んだように見えた。
解決したのだと気づいた。
違う、解決させたのだ。彼が。
色彩の収まった山の上に、あるのは社と彼の背中、そしてあたしの存在。向かい合った社の扉は何事もなかったかのように開いている。
「……常葉。あんた」
「ああ、翠仙ちゃん。来てたんだね」
常葉がゆっくりと振り返る。どうせあたしが居ることなんて知っていたくせに。唐突にそんなふうに解った。
「見つかったんだね、鏡」
「でも、本当はもう必要ないんでしょう」
目の前の状況を見れば分かる。開け放たれた扉、その奥に横たわっている刀。やはり、と思う。彼女は――刀は、社の中に戻っていた。
鏡を探そうと言ったのは常葉のはずだ。御神体が二体だったことを見抜き、その二つを離すべきではないと理解した。そして実際に、彼の言う通りのことが事実として存在した。
だから、社を開くには、刀の消失を防ぐには鏡が不可欠なのだと思ったのに。
「欲しいよ」
彼は目を細める。それから手を伸ばして、こちらに催促する。
「此処に納めるべき御神体は、一対でなければいけない。華と蝶、鏡と刀。突き詰めれば迦陵頻伽と胡蝶だね」
「どうして……わかるの」
ずっと聞きたかったことだ。確認したかったこと。最初は、彼が優秀だから見通せることなんだと思ってた。だけどおかしい。
ううん。本当は、それにさえ気づいていたんだ。
ロクに文献も探さず、見回すだけで言い当ててしまう。見えるものだけでなく、それなのに、まるで今目の前にあるかのように断言していく。
彼には見えているんだ。あたしには見えないもの。生半可な人間には、簡単には分かり得ないもの。
そして――闇を打ち消した蒼い炎。
「常葉。あなた、」
それから間違ってはいけない気がして、言葉を正す。
「貴方、人間じゃないわね」