薊色花伝
ふと思い出すのは、はるか遠い記憶の中にあった、トキワという名前と祖父との繋がり。
当時も社員の数は多くなかった記憶があるけれど、祖父を社長としてこの場所は確かに機能していた。
小さいながらも活気溢れる、穏やかな空気の流れる事務所。その中で祖父が呼ぶ名前のひとつ。常葉。
たしかに、会ったことがある、気がする。ろくに思い出せていない面影を彼の表情の中に探す。
――それにしても。
それにしても、若い。いつ頃からの社員なのか知らないけれど見た目は二十代、せいぜい二十代後半といったところではないだろうか。
少しだけ長い襟足、日焼けとは無縁そうな白い顔。黒よりは茶に近い目の色。顔立ちは…一般的に言って整っているほうだと思う。
「管理って、もしかして住み込み?」
あたしはとりあえず行儀良く座りなおして彼を見上げた。本当は立ち上がったほうがいいのかもしれないけれど、『常葉』さんも何も言わないので気付かないふりをしておく。
「うーん、ちょっと違うかな。一応近所に自宅があるし」
言いながら、下ろしたバケツの中に雑巾を放る。どうやら掃除のほうは殆ど終わりらしい。
「それで、今日は一人でどうしたの」
まるで御遣いに来た孫に話しかけるような気軽さで彼は言う。半分は合っているようなものだけれど、もう半分はおそらく、彼が思っているほど簡単なものではないだろう。
「おじいちゃんから聞いてないの?」
「何を?」
あたしは一瞬だけ彼から視線を外した。
「……薊堂が、なくなるかもしれないってこと」
常葉の表情に変化は無い。代わりに、ああ、と今思い出したと言わんばかりに頷く。
「なんとなく聞いてるよ」
「貴方はそれでいいの?」
「桂一朗さん――先代がそう決断するなら、仕方無いことだよ」
手ごたえの無いリアクション。職場の危機だというのに残念そうでもない。受け入れる覚悟が出来ているのか、彼にとってそんな簡単な問題でもないはずなのに。
常葉は執務机のほうへ向かい、今は誰も使用していない閑散とした机の上を整えた。その鷹揚とした様子を見てしまうと…まるで納得してしまったような表情を見てしまうと、あたしが次に言おうとしていることさえも躊躇われてしまう。
けれど、言わなければならないのだ。
でなければ、あたしが今日ここに荷物を抱えて来た意味がないのだから。
「……実はね」