薊色花伝
心臓の跳ね上がる心地で目を開ける。いつの間にかテーブルを挟んだ向こうに男が立っていた。部屋には誰も居ないと思っていたのに、いつ入ってきたんだろう。返事を返せないうちに、向こうが再び口を開く。
「お客さん…じゃないよね。鍵は閉めていたはずだし」
こちらを見ているのはどこかで会ったような青年だ。右手にはハタキ、左手にはバケツ。スラックスにワイシャツという出で立ちのまま、腕まくりをしてそれらを携えている。
「もしかして、桂一朗さんのお孫さん?」
余り毛を括っていた髪ゴムを解きながら、翠仙ちゃんだっけ、とひとり納得したように頷く。
「大きくなって分からなかったよ。ああでも、目元には面影があるね」
「あんたこそ、誰なの」
私はソファに身体を預けたままで尋ねた。どっちが不審者か分からない状況で、どちらも怯むことすらしない。相手は余裕ある微笑みさえ湛えている。
「僕は常葉。この建物の管理をしてる、薊堂唯一の社員」
トキワ。そういえば――遠い記憶の中で祖父が呼んでいたような気がする。ということはこの場合不審者は私のほうらしい。
私…いいえ、あたし・浅見翠仙のほうが。