薊色花伝
6.払暁
目を開ければ、閉め忘れのカーテンを越えて朝陽。
どうやって部屋に戻ってきたのか憶えていないのに、しっかり自分のベッドに収まっているのには感心する。時計は少し早くて六時、春を祝う鶯の声が庭先から聞こえる。
なんだか、不思議な夢を見た気がする。
夢だから思い出す前に消えてしまうけれど。
軽く頭を振って気持ちを切り替える。出立は八時過ぎ。華崎邸までは電車で二時間余りだから、向こうにはなんとか正午前には着く計算になる。依頼先のことも考えてもう少し早い方がいいのではないかと進言してみたものの、社員の返答は『問題ないよ』だった。『半日もあれば充分だから』と。
本当に、彼に任せれば全て問題無いような気しかしない。もうあれくらいで困惑したりもしないけど。
刀と、社。それと鏡。
私にはぽつぽつとした途切れた線でも、きっと彼にはもう輪郭が露わに見えているのだろうか。
社といえば、薊堂にも一つあるのよね。
一階の裏手、履き出し窓から庭に出る。細長い敷地の端に鎮座する、ブロック塀と背の低い緑葉樹に護られた小さな祠。あたしの背丈ほどしかないその前で手を合わせる。
ここに来てからというもの、毎朝なんとなくお参りを続けていた。自分が取り立てて信仰深いとは思っていないけれど、こうして手を合わせる習慣はやはり浅見家の――祖父から引き継いだ血筋に帰依するのだろう。本家を引き継ぐつもりは、今の所ないけれど。
正面の観音扉を引き開ける。置物からしてどうやら豊穣の神様らしい。もしかしたら本家で奉っているものと同じものかもしれない。今度祖父に聞いてみようか。
「たまにはいなり寿司でもお供えしようかな」
昨日備えた桜餅を眺めながらそう呟く。
「それはいいね」
「わっ!?」
独り言のつもりだったのに、すぐ後ろから声。勿論声の主は誰あろう彼だ。表情は悪びれもせず涼やかなもの。
「おはよう、翠仙ちゃん」
「おはよう……おはようって、常葉、あんたね」
もう少し他人を驚かさない配慮をしてもいいんじゃないだろうか。あたしは必死になって心臓をたしなめながら彼を見上げる。その表情にふと夢の欠片をみつけて、とっさに手繰り寄せた。
「ねぇ。昨日、夜に戻ってきた?」
振り返るのは、昨晩の言葉。
あれは夢?それとも現実?ソファでまどろんでいた筈の自分が部屋にいるものだから、どこからどこまでが本当だったのか判断が出来ない。
あの時の彼は何かが違った。口調も気配もいつもと変わらなかったはずなのに。
彼を見た途端に膨れ上がる疑問。交差する視線は、要領を得ないままパチパチと瞬く。手繰り寄せたものは間違いだったと気が付く。
「いや、真っ直ぐ家に帰ったけど」
その表情に口に出来ない程度の不調和を憶えた。けれど、この際どうでもいい。あたしが知りたかったのは、あのぼんやりした一瞬が本当なのかどうかということだ。
彼は言ったのだ。『明日には終わらせるから』と。
明日には終わらせたい、じゃない、希望観測ではなくて、まるで。
彼自身が、自らの手で完結させると宣言したような。
それは今まで感じた『自信』とは種類が違った。あたしが彼に感じる矜持とは全く異なる、絶対的な結論だ。
じわじわと広がる、なにか。
この場所に――彼に対する違和感。
その答えは、あの社の中にあるだろうか。