薊色花伝
1.ある春の日
空いた左手に地図を掲げて、交差点を眺めていた。
春先だというのに太陽が忌々しいほど揚々としている。約1年袖を通したセーラー服は冬使用で、陽射しに似合わない濃紺色が重苦しい。
背負っているのは大きなスポーツバッグ。右腕には、愛用の指定カバン。
「あーもう、暑いなぁ、北ってどっちだったかなぁ…」
外回り中のサラリーマンが、重装備の私を横目で見ながら何事かと通り過ぎていく。祖父に貰った手書きの地図を頼りに向かう先はもうすぐのはずだった。それを裏付けるように、足を進めるうちに朧げな懐かしさが浮かび上がってくる。
「そろそろのはずなんだけど……見えた」
やがて現れたのは紺青の屋根、時代錯誤な煉瓦造り。小さいながらもビルの合間に自らの存在を主張する建物は、まるで現代から切り離されているようだった。
正面の扉は鍵がかかっていたので、預かってきたマスターキーで扉を開ける。
木製の戸を押し開く。一気に陽光が雪崩れ込んだ。薄暗い室内には僅かに埃が舞い宙に影を晒す。
「おじゃましまーす」
屋敷の中は入ってすぐがエントランスホール。右手にはカウンターがあって、頑丈そうなフロントデスクの上には金色の呼び鈴。私はそれに見向きもしないで階段を昇る。そして突き当たり、正面の扉へ。
扉の向こうは洋室だった。屋敷の外観にぴったりの広い応接室だ。奥行き二十畳ほどで、その果てには天井までのガラス窓。両側には蔵書棚が並び、部屋の中央には来客用のソファと机が添えてある。
奥には現役当時祖父が使っていた執務机が見える。幼い頃に数えるほどしか遊びに来ていないけれど、その様が鮮明に思い出される。私はソファのひとつに鞄を放り出して、その隣に身体を沈めた。
天井を見上げる。硝子製のシャンデリアが太陽光を反射している。カーテンはきちんと開け放されていて部屋の中は明るい。
建物の中は静かなものだ。線路も大通りからも離れているから、騒音が遠い。
座り心地の絶妙さと朝の早起きと、2時間の電車旅がうとうとと目を閉じさせる。上階にあがるのは後にして…少しだけ。
そのまどろみを留めたのは、ひとつの明瞭な声。
「誰?」