薊色花伝
とにかく、一度屋敷に戻ろう、と、常葉に促されて石洞に背を向ける。
確かにこれ以上ここに居ても何があるかも分からない。それに、常葉が気にしている鏡か鈴の有無も確かめなければならない。
社の正面へ回り込み、石段へ。あんなことがあった後なのに驚くくらい山や社に変化はなかった。自然の正常な姿だ。
それにしても、とあたしは歩を緩めた。
先刻の声は何を言っていたのだろう。
誰かが言っていた言葉だとして、何を伝えたかったのだろう。
それは、あたしに対して?それともやはり刀について?もやもやが残ったまま華崎邸への坂道を下るのは少し気後れがする。
通りかかった社の扉に手をかけた。初めて祝詞を唱えた所為で心も落ち着かないし、何か手掛かりが欲しかったのだ。自分の身に何が起きてきたかを忘れていたわけではない。寧ろ、だからこそ不用意だったと言える。
本当に開かないのかと、手を伸ばした瞬間に。
瞬きを終えるか否かの瞬間に。
触れた木の感触。それが一瞬で無くなる。
視界の端が歪むのが分かった。
気が付いても、今回ばかりは遅い。
扉が歪む。
闇が、膨らむ。
「翠――」
焦った様な常葉の声が掻き消える。
その代わりに耳に残ったのは、先刻の。
“かえして”
ああ、返して欲しかったのか。
飲み込まれたと理解した途端に、その言葉も明確になった。