薊色花伝
夜、じゃ、ない。そんな時間ではない。
あたしは目を凝らす。そして感じ取る。
闇だ。闇。歪み。
少しずつこの森を取り込むかのように広がっていく。普通の人には見えない何かだ。それがあたしの鼻先まで近付いてきている。顔を覆いながら、触れた途端に気が付く。
重苦しく湿った、人間でないものの臭い。なんだろう。黴や苔の臭いだけじゃなくて。
「翠仙ちゃん!!」
いつの間にか常葉がすぐ後ろにやってきていた。あたしは振り向くこともせず、声に応えないまま深く息を吸う。
何をすればいいかは分かっていた。
落ち着け。落ち着いて、祖父に教わった通りにやればいいんだ。
「とふかみえみため、かんごんしんそんりこんたけん――」
見様見真似で覚えた祝詞をゆっくり唱える。心と場を静める。視界が少し回復する。ずしりと重い『それ』が空気を解放していく。
――大丈夫。行ける。
呼吸を直して、それから、言葉を刻みながら縦に四線、横に五線。
最後に、結んだ剣印で全てを払うように気を込めて。
ぶわり。
闇が拡散する。
治まると思ったそれは直前で又色濃く歪んだ。
駄目かもしれない。
一瞬だけ心を過ぎった不安。けれど。
青々した木々が揺れる。澄んだ風が湧き上がり、その歪みを掻き消した。
逃げるように収まっていく闇。ぞろぞろと溢れていたはずのそれは、再び洞の中へと吸い込まれていく。間に合わなかったものは風に吹かれてどこか遠くへ。
たちまち闇は薄れ、やわらかな木漏れ日が戻ってきた。
――上手く行った?
肩の力を抜き、安堵と共に息を吐く。目の前には元通り、注連縄が塞ぐ石洞の入り口。凪の様な違和感も消え、さらさらと葉が擦れる音が心地良かった。
「驚いた。護法が使えるんだね」
常葉がすぐ後ろまでやってきていた。やはり彼は、あたしがしたことに対して疑問は持っていない。
「だから言ったでしょ。あたしはおじいちゃんと同じ血が流れてるって」
振り向けば安堵と困惑の交じった顔。
専門的な精進をしたわけではないけれど、幼い頃にまじないのように教えてもらった。心を落ち着かせるのにも役立つからと。しかし、まさか本当に効くとは思わなかった。
祝詞、魂を鎮めるという役割。それはつまり、魂という存在を知らなければ成立しない。
御霊、御魂。全てのものに宿るとされる生命の核だ。知能の有無は関係ない。自然のものは全てそれを抱えている。人間も、樹も。造り出したものにさえも。
ただし、あたしはそれを正しく悟っているわけではないから、理屈の上でしか知らない。
見えずとも、感じて、理を得る。
収まるべき場所にその御霊を戻す。祖父の仕事が、傍らの彼が引き継ぐ仕事が『そういうもの』なのだと改めて理解した。