弓ちゃん、恋をする
「わかるわけないよ、弓ちゃんのことなんか」と星也は言った。わかるわけがない。
「弟なんだからいっしょにいてちょっとは感じるところってあるでしょう? ここ最近あの子を見てて何かいつもと違うところとかなかった?」
無駄だとは思ったけれど、一応星也は弓ちゃんの調子がおかしくなる直前のことを考えてみた。でももちろん特に思い当たるふしはなかった。それに大体において、弓ちゃんの言動には星也にとってはかりかねるところが多かったわけだから、それを変だとかいつもと違うとかいった具合に判断できるわけがなかった。「別になかったと思う」と星也は言った。
それを聞いてしまうと、お母さんは短くため息をついて食器を棚にしまう作業に戻った。
ひとついえるのは、弓ちゃんの存在が家族の中で大きな割合を占めているということだ。原因不明の変調をきたす前の弓ちゃんにしろ、今の弓ちゃんにしろ、それぞれ家族全体のバランスのようなものに多大な影響を及ぼしている。結局、お母さんは弓ちゃんが元どおりになったところで同じようにため息をつくことになるんだろうな、と星也は思った。弓ちゃんの抱えている何らかのトラブルがトラブルである前に、弓ちゃん自体がトラブルなのだ。そしてそのトラブルが、正確にはそのトラブルをどのように適宜処理していくかということが、家族の中心をなしているのだ。そう考えると、星也は弓ちゃんの存在の強さを認めないわけにはいかなかった。たいしたものだ。
弓ちゃんが恋をしているのだということに星也が思い当たったのは、その数日後だった。それは夕方のことで、星也は中学校からの帰りの電車の中で弓ちゃんを見かけた。弓ちゃんは星也が乗ったとなりの車両にいて、扉のそばに星也に背中を向けた格好で立っていた。とても寒い日で、星也はあごまでマフラーをぐるぐる巻いてニットの帽子をかぶっていた。電車の窓ガラスはどこも白く曇っていた。でも弓ちゃんはマフラーも巻いていなかったし、帽子もかぶっていなかった。手袋もしていなかった。