弓ちゃん、恋をする
そのことに最初に気づいたのはもちろん星也だった。一週間ほど、弓ちゃんは誰が見ても明らかなほどに様子がおかしかった。それはごく日常的な挙動から見てとれた。目の焦点があってなかったり、声をかけても気づかなかったり、夕ごはんを半分以上残して部屋に引きあげたりした。ほとんど口もきかなかった。そこにはいつもの弓ちゃんが漂わせているどこかぴりっとした雰囲気が見当たらなかった。それだけではない。外に出かけるとマフラーをバスの中に置き忘れた。道を歩くと人にぶつかった。電車に乗ると切符をなくした。ひどいときには反対方向の電車に乗ってしまい、終点までついてからあわてて家に電話をよこしてきたりした。
これはどう考えても異常事態だった。ある日、弓ちゃんが夕ごはんの途中で具合が悪いからといって二階の部屋に上がってしまうと、家族の間でもさすがに様子が変だという話になった。
「いったいどうしちゃったのかしら」とお母さんはテーブルに頬杖をついて言った。「声かけても生返事だし、ろくに食事もとらないし、いつも何だかぼんやりしてるみたいだし」
お父さんは二階の弓ちゃんの部屋があるあたりをちらっと見てから読んでいた新聞をたたんで置いた。「うん、そうだな。確かにこのごろちょっと変だよな」
「ちょっとどころじゃないわよ、あれは」、お母さんは頬杖をついたままお父さんの目をきっと見て言った。「あの子は確かに前からいろいろと問題があったわよ、そりゃ。でもね、弓子は決してあんなふうに鈍臭い子じゃないのよ、原則的に」
そのとおりだった。そのとおりだな、と星也は思って何度か小さくうなずいた。弓ちゃんには確かに理不尽で傲慢で自意識過剰なところがあったけれど、少なくともその前提としていつもクールだった。今の弓ちゃんは違う。クールじゃない。そしてクールでいられないがために、理不尽でも傲慢でも自意識過剰でもない。空っぽなのだ。それならいったい何が弓ちゃんを空っぽにしてしまったのか。それは星也にはさっぱりわからなかった。この時点では弓ちゃんが恋をしているなんて誰も思いもよらなかったのだ。
「ねえ星也」、食器を片付けているときにお母さんは居間の星也に向かって言った。お父さんはお風呂に入っていた。「あんた、弓子がちょっとおかしいのは何でだと思う?」