弓ちゃん、恋をする
「うん、そう」、弓ちゃんは星也のほうを見ないまま言った。「何かが」
「でも弓ちゃん、この先は危ないよ、きっと。お母さんはこれ以上奥に入ったら帰って来られなくなるって言ってるしさ」と星也は言った。でも弓ちゃんは星也の言葉など耳に入っていないみたいだった。
「いつかこの先に行ってみたい」としばらくあとで弓ちゃんは言った。「今はまだ無理、きっと森に飲み込まれちゃうから。でも、もっと私が大きくなったら、そしてもっとこの森が私のことを受け入れてくれるようになったら、私はこの三本杉を越えるのよ」
「ねえ、弓ちゃんはこの先に何があると思ってるの?」と星也は訊いてみた。
弓ちゃんはそこで初めて顔をあげて星也のほうを見た。でもすぐにまた視線をそらし、両手を開いて自分の手のひらをぼんやり眺めた。でも実際には何も見ていないような目をしていた。「わかんないわよ、そんなの」、そして深く息を吸い込んで目を閉じた。目を閉じたまま弓ちゃんは言った、「あんたはこの奥にあるものを見てみたいと思ったことはないの?」
星也は少し考えてみた。「ないと思うよ」
「どうして? どうしてそう思わないのよ」、弓ちゃんは目をあけて訝るような口調で言った。
「どうしてって言われても困っちゃうんだけどさ、でもお母さんの言うとおりこれ以上向こうに言ったら二度と帰って来られなくなっちゃうような気がするんだよ。神隠しにあうみたいに、自分がどこか遠いところにぽっと消えちゃうような気がするんだ」
弓ちゃんは静かに首を横に振った。「それが怖いの?」
「うん、すごく怖い」と星也は正直に言った。
弓ちゃんは少しだけ笑って上を見上げた。星也も弓ちゃんの目線を追うようにして上に目をやった。三本杉の枝葉が幾重にも重なり、その合間から空が少しだけのぞいていた。
少しあとで弓ちゃんは言った、「あんたは臆病者ね」
そうかもしれない、と星也は思った。でもやっぱり家に帰れなくなるのは怖い。ぼくだけじゃない。誰だって怖い。
弓ちゃんは立ち上がってお尻についた土を払った。「星也、もう帰るわよ」
そして二人は家に帰った。
こんなふうにして弓ちゃんが三本杉の下でどんなことを思っていたのか、星也にはまだ見当もつかなかった。それがおぼろげにでも感じられるようになるのは、それから何年もあとのことだった。
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