弓ちゃん、恋をする
星也と弓ちゃんはいつも三本杉の太い幹の根元に脚を伸ばして座り、そしてほとんど何もしゃべらずにそのまま長い時間を過ごした。耳を澄ますと森の中のいろんな音が聞こえてきた。森にはさまざまな音があるということを、二人は三本杉で学んだ。虫たちの羽音。鳥たちの声。木の実が地面に落ちる音。風が樹々の間をわたり、枝や葉を揺らせて去っていく音。空気の澄んだ静かな日には樹々が呼吸する音まで聞こえてきそうな気がした。三本杉の下にいると、この森を形作っているたくさんのものごとの成り立ちのようなものを何となく感じられた。星也はそれに心を重ねようとして、いつもいろんな音に耳を済ませた。三本杉は特別な場所なのだ。
そしてそれは弓ちゃんにとってもある程度同じだった。三本杉の下にいるときの弓ちゃんはどこか不思議だった。それまでいくら機嫌悪そうに男の子の悪口をまくしたてていても、三本杉の下では弓ちゃんは必ず黙った。まるで格調高い厳粛な儀式に参加しているみたいな顔をして、いくぶん伏目がちになった。そして樹の根元に生えている短い草をむしっていじりまわしたりした。そんな弓ちゃんを見ていると、ここで言葉を発するのが何だかとても不謹慎なことであるかのように星也には思えた。弓ちゃんは何か複雑なことを考えているようにも見えたし、別に何ということもなくただぼんやりと心を空っぽにしているようにも見えた。深く深くどこか遠いところへ意識を下らせていって、星也の知らないところで星也の知らない音を聞いているのかもしれない。あるいは弓ちゃんは森と言葉を交わしているのかもしれない。ともあれ、そこでの弓ちゃんは他のどんなときの弓ちゃんとも違っていた。そしてそんな弓ちゃんの姿を目にすることができるのはこの三本杉の下でだけだった。
一度だけ、弓ちゃんが三本杉の下で口をきいたことがある。弓ちゃんはいつものように長い間黙っていたあとで突然口を開いた。突然だったので、星也は一瞬びっくりして弓ちゃんが何を言おうとしているのかよくわからなかった。
「わたしね」と弓ちゃんは言った。静かな水面にそっと小石を落とすような、小さくてよくとおる声だった。「この三本杉の向こうにはきっと何かがあるんだと思うの」
星也は弓ちゃんの顔をのぞき込んだ。でもそこにはとりたてて表情と呼べるようなものは浮かんでいなかった。「何かが?」