弓ちゃん、恋をする
「弓ちゃん、帰ろう」としばらくあとで星也は言った。「ここは寒すぎるよ。そろそろ帰ったほうがいいよ」、そう言って星也は立ち上がった。「帰ろう」
弓ちゃんは下から星也をにらみつけた。「あんた全然わたしの話聞いてない」
「聞いてるよ」と星也は言った。そして右手を弓ちゃんの前に差し出した。
「聞いてない。全然」、そう言って弓ちゃんは星也の手を払いのけた。「足が動かないってさっき言ったでしょ? 一歩も動けないの、わたしは」
星也は眉をひそめた。「まだ動かないの?」
「動かない。全然」と弓ちゃんはきっぱりと言った。
星也の顔色が曇った。「困ったな」
「そうよ、困ってるの。わたしは。さっきからずっと。このままここで凍え死ぬんじゃないかって心配したほどよ。何、これ?こんな薄っぺらいマフラーちっともあったかくない。こんなの何の役にもたたない。あんたわたしを殺すところだったのよ、もう少しで」
「困ったなあ、そんなこと言われても」と星也は言った。
「だから困ってるのはわたしのほうだって言ってるでしょ? 何とかしなさいよ」
「何とかって、どうにもできないよ、そんなの」と星也は抗議した。
「おんぶして」と弓ちゃんは言った。
「え?」と星也は訊き返した。「おんぶ? 弓ちゃんを?」
「そうよ。当たり前でしょ。あんた馬鹿なんじゃないの? どう見たってそれしかないでしょう、この場合」
「でも、弓ちゃんを背負ってうちまで歩けるかわかんないよ。ぼくそんなに力持ちじゃないし」
「じゃあどうするのよ、もしかしてこのままわたしをここにおいて行くつもりじゃないでしょうね? こんなに寒くてこんなに暗い場所に、寒さで死にかけてる自分の姉を置き去りにするわけ? そんなことしたら、今度あんたがわたしを見るときにはもうわたしは死体になってるかもしれないのよ? あんたそれでもいいわけ?」
星也には言い返す言葉もなかった。小さいころに同じように自分の弟を置き去りにしたことを弓ちゃんが覚えているわけがない。「しょうがないなあ」とだけ言って、星也はしぶしぶ背中を弓ちゃんの前に差し出した。
帰る途中であたりはほぼ完全に暗くなった。地面に積もり始めた雪の白さだけが闇の中に淡く浮かび上がっていた。