弓ちゃん、恋をする
星也の頭にあったのは一つの可能性だった。それはこういう可能性だった。『弓ちゃんは三本杉を越えた』。改めて頭の中で言葉にしてみると、それが一番もっともらしいことであるように思えた。小さいころから、弓ちゃんは心の中のかなり大きな部分をこの森にそっくり預けているみたいだったし、そのことによって森に特別な結びつきを感じているみたいだった。だからこそ弓ちゃんは三本杉の先にある、この森の本当の姿を知りたいと思ったのだ。誰も足を踏み入れない森の奥。日の光も僅かしか届かない静かな暗闇。そこには何か弓ちゃんにとって必要なものがあるのかもしれない。弓ちゃんの心を守ってくれるような深い何かが。
でも、と星也は思った。でも弓ちゃん、そこは危険な場所かもしれないんだよ。あまり遠くへ行っちゃうと、もう帰って来られなくなるかもしれないよ。知らない場所で一人ぼっちになるのはとても淋しいことなんだよ。
星也は頭の高さに張り出した枝を掴んだ。樹皮は冷たく、中が空洞になっているような感触があった。ほんの少し力を加えるだけで折れてしまいそうだった。
あたりはどんどん暗くなっていった。冬の日没は早く、この時間帯は明るさがするりと簡単に失われてしまうからだ。星也は懐中電灯を持ってこなかったことを後悔した。闇を色濃くしていく森の道を一人で奥へ向かっていくのは正直言って怖いことだった。自分がいつのまにか足早に歩を進めていることに気づいた。でも焦っちゃだめだ、決して焦ってはいけないんだ。星也は自分にそう言い聞かせた。ゆっくり歩くんだ。ゆっくりと、弓ちゃんと二人で歩くときのようにゆっくりと。星也は一度立ち止まって深呼吸をした。
弓ちゃんも一人でここを歩いたのだ。たった一人で、うしろを振り返ることもなく。そして今はここよりずっと深い暗闇の中に立っているのだ。どうしてそんなことができるんだろう、と星也は不思議に思った。どうして自らそんな危険な冒険をしなければならないんだろう。星也にはわからなかった。
でもそのとき何かが星也の心に引っかかった。何か、ささやかだけれど確かな何かだった。それが小さな声で星也に呼びかけようとしていた。