弓ちゃん、恋をする
五時になっても弓ちゃんは帰ってこなかった。近所の家の雨戸が閉められる音が聞こえるころになると、さすがにお母さんも気にかけ始めた。あたりはだいぶ暗くなってしまっていた。
「まったく、どこまで行ってるんだか」とお母さんはキッチンで野菜を炒めながら言った。「寒いんだから、さっさと帰ってくればいいのに。馬鹿ねえ」
お母さんがそんなに慌てた様子でもないのは、弓ちゃんの帰りが遅くなることに慣れてきたからだ。でも星也には気になることがあった。あのマフラーは弓ちゃんによく似合うけれど、あまり暖かくないのだ。生地が薄いからだ。あれじゃ外は寒いだろうな、と星也は思った。
五時半になると雪がちらつき始めた。
「ちょっと、弓ちゃんを迎えに行ってくる」と言って星也は立ち上がった。
「あんた、弓子がどこに行ってるかわかってるの?」
星也は少し考えてみた。心当たりくらいはある。「とりあえず、傘を持ってかなきゃ」と星也は言った。「駅まで」
「早く帰って来なさいよ」とお母さんは言って、スープの味見をした。とてもいい匂いがした。
玄関で靴を履いているときに星也が考えていたのは、知らない場所で弓ちゃんにおいていかれた昔のことだった。途方に暮れて下を向いて歩いたときの、自分の小さな足の爪先のことを星也は思い出した。よそよそしい景色のなかに自分がおかれていることがたまらなく嫌で、星也はずっと足もとばかりを見て歩いた。たった一人で、知らない場所で、沈みかけの夕陽も見ないで。靴紐を固く結び、帽子を目深にかぶると、星也は一つ大きく深呼吸をしてドアの外に出た。
外は思わず肩に力を入れてしまうほど寒かった。星也の吐く白い息が、薄闇の中に即座に取り込まれた。雪はそれほど降ってはいない。手のひらを上に向けると、小さな雪片がふわりと降りてきて消えた。
星也は家の裏手にまわり、森へ続く道へ入った。薄闇の中に浮かび上がる森の樹々は黒く、道はしっとりとした冷気に覆われていた。星也はその薄暗い道をゆっくりと歩き始めた。