弓ちゃん、恋をする
結局、弓ちゃんは自分の中に新しく立ち現れてきた感情を最後までうまく処理することができなかったのだ、と星也は思った。でもいったいどんなやりようがあったんだろう。そんなことわかるわけないじゃないか。
いつか自分も誰かに恋をすることになるのかもしれない、と星也は思った。同じような視線で誰かを見つめ、同じように言葉にできない思いを抱え、同じように新しい世界のありようについて思いをめぐらすことになるのかもしれない。そうしたら、あのとき弓ちゃんが森で呟いた言葉を少しは理解することができるのかもしれない、と星也は思った。それが、少なくとも星也にとっての一つの出口のようなものだった。
そして、弓ちゃんにとっての出口となる出来事はそれよりもう少しだけあとにやってきた。同じくある日曜日の、こんなエピソードだ。
「星也、マフラー貸して」、リビングでテレビを見ている星也の背中に向かって弓ちゃんが言った。
「うん、いいけど」と言って星也は立ち上がり、部屋にマフラーを取りに行った。房飾りのついた紺色のマフラーだ。星也はそのマフラーを弓ちゃんに渡した。「自分のちゃんと持ってるくせに」
「うるさい」と弓ちゃんは玄関で靴を履きながら言った。ドアの磨りガラスをとおして外の明るい光が入り、玄関の床に落ちていた。
「どこ行くの?」と星也は訊いてみた。
「ちょっとそこまで」と弓ちゃんは星也に背を向けたまま言った。「お散歩」、そしてドアをばたんと閉めて出ていった。その勢いで空気中の小さな塵がかき混ぜられたのが、ガラスをとおった光の中に浮かんで見えた。それが静かにおさまるまで、星也は玄関に何となく立ち尽くしていた。
そのあと、弓ちゃんはなかなか帰ってこなかった。四時過ぎにお母さんが夕食の買い物から帰ってきて、弓ちゃんはどこに行ったのかと星也に尋ねた。
「そう言えば、すぐ帰ってくるようなこと言ってたけどな」と星也は言った。
「ふうん、まあいいけどね」とお母さんは言って、買い物袋の中身を冷蔵庫に移す作業にかかった。
星也はテレビを見ながら窓の外に目をやった。さっきまでからっと晴れていた空の色が、冷たく張りつめた灰色に変わっていた。窓の内側には丸い水滴がびっしりと結露していた。