弓ちゃん、恋をする
星也はコートのポケットに両手を突っ込んだまま弓ちゃんのところまで駆け寄っていった。星也が追いついたところで弓ちゃんはまたくるりと前を向き、星也の三歩ぐらい前を歩いた。「学校は楽しいよ」、と星也は弓ちゃんの背中に向かって言ってみた。でも弓ちゃんは振り向かなかった。星也は弓ちゃんの横に並んでもう一度同じことを繰り返した。「学校は楽しいよ、弓ちゃん」、そして弓ちゃんの顔をのぞき込んでみた。弓ちゃんはほんの少しいらいらしているみたいに見えた。「そりゃ確かに勉強についてはうんざりすることもあるけどさ」と星也は続けた。「でも、それほどたくさんじゃないけど友達もいるし。みんないいやつだよ。ちょっと馬鹿だけどね。ちょっとどころじゃないかな、そう、弓ちゃんの言うとおりかも。みんな大馬鹿者だよ。大馬鹿者だけど、みんなといっしょに遊んでるのは楽しいよ」、そしてもう一度弓ちゃんの顔を見てにっこり笑ってみた。「学校は楽しいよ、弓ちゃん」
「もういい、わかったってば」と弓ちゃんは不機嫌な顔で言った。そして見せびらかすみたいに大きなため息をついて立ち止まり、星也のほうを見た。「ごめん、そうじゃないの」と弓ちゃんは言った。「わたしが言ったのはそういうことじゃなくて、その…」、でもまた言葉が見つからなかった。そしてポケットに両手を突っ込み、下を向いたまま星也の前を歩いた。
やがて二人は三本杉の広場に出た。三本杉の常緑は茶色くはだけていく森の樹々の中にあって頼もしかったけれど、それでも彼らは彼らで身を寄せあい、厳しい冬を何とか耐え忍ぼうとしているみたいに見えた。
星也と弓ちゃんは杉の樹の根元に並んで座った。そしていつものように黙って目を閉じ、森の音に耳を済ませた。普段と同じ森の音がする。風の音や、鳥の声や、木の実がはじけるようなぱちんという音。耳に手のひらをかぶせると、その小さな覆いの中で空気が動いている音を聴くことができる。耳たぶは冷たく、手のひらは温かかった。ひんやりと冷たい、でもふわりとした空気がまぶたの上に降りてくる。風が吹き、鼻の中をつんと冷やしていく。深く息を吸い込むと、湿った土の匂いがする。ようく耳を澄ませると、隣で弓ちゃんが静かに息をしている音も聞こえてくる。