弓ちゃん、恋をする
でももちろん時間は経過していた。そいつはもう一人の男子生徒といっしょにゆっくり星也のほうに歩いてきていた。弓ちゃんはまだそのままの姿勢でそいつを見つめてぼんやりしていた。やがてそいつは星也の前をとおり過ぎることになった。あたりは暗くなりかけていたのではっきりとはわからなかったが、特にハンサムというわけでもなければ、何か際立った特徴のある顔立ちでもなかった。印象の薄い顔だった。いっしょに歩いている生徒はどうやらそいつの先輩らしかった。そいつはその先輩と何やら話をしていて、ときどき先輩が何か面白いことを言うのを聞いて楽しそうに笑っていた。これが弓ちゃんが恋をした相手なんだな、と星也は思った。でもそれは何だか非現実的なことのように思えた。少なくとも星也にはそいつと弓ちゃんが肩を並べて歩いているところを想像することはできそうになかった。
そいつが星也の前をとおり過ぎて、ずっと遠くへ歩いていってしまっても、弓ちゃんはまだそのまま校門の前に立っていた。道は一本道だったから、もうそいつは遠くのほうで豆粒みたいに小さくなってしまっていた。でも弓ちゃんはまだそいつを見ていた。やがてそいつはどこか遠くの角を曲がって路地に消えてしまったが、弓ちゃんはそれからもしばらく放心したみたいにそこに立ったままだった。まるで波一つない海原にあてどもなく漂っている小さないかだみたいだった。
結局、弓ちゃんが鞄を手にとって家に帰り始めたのはそれから一〇分後のことだった。星也も弓ちゃんがしっかり駅に向かって歩いていくのを見届けてから、弓ちゃんの一本あとの電車で家に帰った。
家に帰るとちょうど夕ごはんの時間だった。星也は鞄を部屋においてから洗面所で手を洗い、弓ちゃんのとなりに座った。弓ちゃんは取り澄ました顔をしてもう席についていた。お父さんがテーブルの向かいで新聞を読んでいた。