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早稲田文芸会
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二番ホームから電車が発車いたします(かわの)

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少女はミシン針をくわえ真っ赤な舌の上で転がした。ある時は錐で手首に穴をあけようとした。ある時はハンガーの洗濯竿に引っ掛ける部分を眼球に突っ込もうとした。そういったパフォーマンスじみたことをするのは千曲が家にいてそして少女の目の前にいる時に限られた。彼が出かけている間は、少女は黙って寝ているようだった。おい何やってるんだ止めろと時に暴力を行使して止めさせると少女は何が楽しいのかきゃっきゃっと朗らかに笑った。少女の白かった手足は打撲や切り傷や擦り傷などで赤や青の水玉模様ができていた。言葉が不自由なので少女の名前は分からなかった。なので千曲は外にいる間はもっぱら少女を何と呼ぶか考えていた。それは近所の坂の上にある小学校の二年二組の教室にいる今もそうである。彼は均等に並べられた机の列のちょうど真ん中にいた。手当たり次第に机を椅子を持ち上げ黒板にロッカーに窓に扉に投げ付けていた。針の折れたコンパス、十三センチメートルの定規、角が折れた国語の教科書、名前のない算数ドリル、アルトリコーダーの吹く部分、マジックで「殺」と書かれたランドセル、悪意に満ちた交換ノート、体育が塗り潰された時間割、「高いビル」と書かれた習字の紙、「みんなであいさつ」と言う標語、二つに折れた鉛筆などがそこら中に散らばった。足の踏み場もないくらいに、それらは飲み込まんばかりに千曲を取り囲んでいた。彼は町の中にして無人島に残された遭難者の気分を味わうこととなった。窓の外ではトルコ行進曲をバックに銃声が鳴り響いている。紅組の早さを少女の声が棒読みで伝える。教室のひび割れた黒板の端には今日の日直の名前が斜め気味に書かれている。不意に彼は思い出す。あのっ、千曲くんは、将来何になりたいのかなっ? 小学校五年生の時の担任は新米だった。二十代中盤辺りの若い女だった。そいつはいつも跳ねるように喋っていて千曲はあまり好きではなかった。そいつは「あたしはみんなの事が大好きなんだよっ」などと間抜けなことを普通に言えるタイプの馬鹿だった。将来の夢ですか? 彼は根本的に将来というものが分からなかった。分からないというか諦めていた。自分自身が自分自身である以上もうこうでしかないのだと思っていた。だから彼はこう答えていた。生まれ変わって女だったら売春婦、男だったらロックスターになりたいです。小学校の卒業文集ももちろんそれで通し、中学校も高校も誰かに聞かれればそう答えていた。
椅子の角の形にひしゃげた扉が軋みながら開いた。ほんの少し空いた隙間から砂で汚れた白い体操着と短めの紺色の短パンを履いた少女が目だけ覗かせていた。扉を握りしめている手は爪に泥が挟まっていて汚らしかった。その手が微かに震えているのに気が付くと千曲は別れ際の恋人のようにその子に手を振った。ぎょっと目を丸くさせより強く扉を握るのを見て「どうしたの? 忘れ物? ほら、入りなよ、取っていきなよ」と話し掛けた。その子はライオンのいる檻に入るように一歩一歩慎重に教室の中に足を踏み入れた。出来る限り教科書を踏まないように足で掻き分けながら歩いてきた。そして目の前に来たとき彼はその子をがらくたの山の中に押し倒した。短パンに手を掛けるとその子は「お兄ちゃんも私のお兄ちゃんと同じことをするんだね」と言った。千曲を見上げるその目は灰色だった。彼はすっかり萎えてしまってその子と一緒にお弁当を探すことにした。十分後社会科の資料集の「院政政治のすべて」というページの下から見つかったそれはプチトマトが爆発していて卵焼きが赤くなっていた。それでもその子は「ありがとうお兄ちゃん」と手を振って運動場に戻っていった。彼も帰ることにして運動場とは反対側にある階段に向かった。校門の所には女が立っていた。あの時の新米教師だった。頬の赤みは薄れ髪は量が少なく色素が抜けている。全体的に身体が薄くなったような印象を受けた。千曲と目が合うと女は「あっ」と漏らした。跳ねるような口調はそのままだった。ただし昔のように地上に上がりたての蛙のような感じではなく釣り上げられた鮪のような感じであった。
「いよぅ」
「あっ、あっ、何でここにいるんですかっ」
「なぁ、おい、覚えてるか、俺だよ俺、俺」
「あたしはどうしてここにいるか聞いてるんですっ」
「なぁあんた、今も言ってるのかよ、生徒にさぁ、私はみんなのことが大好きだって」
「質問に答えてくださいっ、不法侵入と見なしますよっ」
「なぁ、聞いてくれよ、思い付いた、今ならちゃんと言えるよ、将来の夢、俺はさぁ」
言葉を発する前に千曲は女に突き落とされていた。階段を車輪のようにごろんごろんと大回転しながら彼は踊り場に着地した。着ていたジャケットの肘は破れ額からは一筋血が流れていた。舐めると錆びた味がした。きっと鉄棒もこんな味なのだろうと思った。階段を見上げると女はまだそこに立っていた。表情はもやがかかったように見えなかった。打ち所が悪くて視力が低下したのだろうと思った。
「ばっ、馬鹿にしないで下さいよっ、何なんですかっ、何様のつもりなんですかっ、みすぼらしいっ、薄汚いっ、そんな顔をしている癖にっ、うざったいんですよっ、あたしにっ、あたしに話し掛けないでくださいよっ、鬱陶しいっ、どいつもこいつも高慢ぶってっ、結局っ、こんな風に屈服するんじゃないですかっ、這いつくばるんじゃないですかっ、ああうざったいざまあみろっ!」
女が去るのを見届けてから彼は立ち上がり何事もなかったかのように軽やかに階段を降りようとしたが三歩目で足を滑らせもう一度転がり落ちた。肘や膝や出っ張っている部分はみな一様に痛くなった。ジーンズもすり切れて肌が見えるようになった。額からはもう一筋血の川が流れ落ちてきた。そちらも舐めると錆びた味がした。何だ結局変わらないんじゃん、と彼は口角だけ上げて笑った。するとぷちりと音がして唇が切れた。膨れあがって風船のようになりすぐにはじけてこぼれ落ちる、その血だけははっきりと鉄の味がした。足に力が入らなくて立ち上がることが出来なかった。空に手を伸ばしても何かを掴むことはなかった。目に映るのはただの青色だけだった。意志を失った腕は重力に従い立てかけられた箒が倒れるようにぱたりと地面に落ちた。コンクリートの地面は何事にも動じないと言わんばかりにとても固かった。ズボンのポケットから携帯電話を取り出すとメールが来ていた。千曲のアドレスを知っているのは現在ただ一人だけなので誰からか容易に予想することが出来た。『大丈夫か?』。電話を掛ける。「もしもし」「大丈夫じゃねーよ」「は?」「大丈夫じゃない」「今どこ」「学校。階段の下」。電話は切れた。ほこりのように鳥が空を飛んでいくのを五羽ほど数えたぐらいで饗庭はやって来た。「大丈夫か、おい」「大丈夫じゃない」「そうだな」「うん」「帰るか?」「うん」「歩けるか?」「ううん」「そうか。分かった」。千曲は饗庭の背に乗せられて帰った。くっつけた頬から伝わる体温は自動販売機の取り出し口から出して少し経ったポタージュの缶のようでちょうどよく、彼はいつの間にか目蓋を閉じていた。