二番ホームから電車が発車いたします(かわの)
基本的に好き嫌いというものを知らない千曲だったがどうしてもピーマンだけは食べられなかった。あの毒々しい緑色とつやつやとした光沢、そして噛んだ時の案外柔らかい食感と苦みが生理的に受け付けられなかった。ピーマンを食べるといつもブルーベリーを無理矢理食べさせられる視力の悪い子供みたいな気分になるのだった。それ以外には一切彼は好き嫌いをしない。そのため彼は小学校の頃ピーマン以外の給食の時はよく褒められていたがそれも一年生の時までだった。二年生の時に「俺の名前読める?」「読めないけど」「あえばって読むんだよ、せんまがりくん」という会話の後彼は話し掛けてきたそいつの脳天にソプラノリコーダーを叩き込み救急車を呼ぶ事態になったからだ。リコーダーは砕けて「ラ」の音が出なくなった。それ以降も彼は人に跳び箱の五段目を首に引っ掛け窒息させたり、三角定規の三十度の角を耳に突っ込み鼓膜を破ったりということを繰り返していたために、教師は千曲を掻きむしった後の虫さされにウナコーワを塗るように扱った。友人はいなくなった。何故かナポリタンを注文してしまった彼の目の前でペペロンチーノを食べる饗庭を除いていなくなった。天井の光を反射してぬらぬらと沼の淵のように光る皿の端に寄せられたピーマンの山を見て饗庭はふんと笑った。フォークで爪を剥いでやろうかと思ったが止めた。隣の席に座る女子高生が「あーうるさいうるさいッ、超むかつくんですけど、死ねって感じなんですけど、シューマッハシューマッハうっさいんですけど、だから言ってるじゃんあたしはセナ様がいっちばん好きなんだってばさまじ話聞けよクズが!」と携帯を耳から離しそのまま二つに叩き折ったのに気を取られていたからだ。全くを以って千曲も同意だった。金持ってるのかよと端に寄せられていたピーマンを噛み砕きながら饗庭は聞いた。そもそも財布持ってないけどそれが? と聞き返すと黙って伝票を取った。千曲は先に外に出た。二時過ぎの駅前に人はほとんどいなかった。いつもありがとね、と出てきた饗庭に呟くと、いや全然構わんよ、と彼はレシートを確認しながら言った。愛する者のためなら何だって出来るものだろう?
窓の外を流れていく景色を呆然と千曲は見ていた。何かを振り切るように振り返る間も与えず風景は走っていく。視点は固定されている。残像、残像だけが引き伸ばされては目に写りそれも間もなく立ち消える。その名残を残すだけの窓枠の外側は、ばつん、と、唐突に、暗闇に掻き消された。ごぅんごぅんと耳を振るわす音がする。等間隔で白い線がびっ、びっと大急ぎで走っていく。振り向いても黒く前を向いても黒い。反射して映った自分の顔は縦に伸びていやに頭が大きく見えた。隣にいる饗庭は下を向いて本を読んでいるので特に変わりはなかった。その本のタイトルを読もうとして千曲は突然気分が悪くなり床に胃袋からせり上がってきた物をそのまま吐き散らした。食道を通って口から流れ落ちるそれは酸味が強く苦く小学校の体育館の物置に充満していた空気みたいだな、と彼はぼんやりと思った。おいどうしたおいと饗庭が背中をさするので彼は吐き続けた。胃袋そのものを吐き出さんばかりに大口を開けてすうはあすうと呼吸を漏らしながら吐き続けた。床はびしょ濡れになり正面で新聞を読んでいたサラリーマンの舌打ちがやけに心地よく聞こえた。いつの間にか電車は駅に着いていて担ぎ出された彼は深呼吸をしたがスパゲティが喉に引っかかって大きくむせた。頭の中は今までにないくらい冴え渡り左脳はフル回転で三平方の定理の正しさを証明していた。おい大丈夫かおいと心配そうに覗き込むので千曲はいつも鏡を見て練習している女子中学生向けの笑顔で饗庭の顎にアッパーカットを決めた。半開きになっていた口ががちりと閉まった。「あぁどこかに行きたいなぁ」と千曲は立ち上がりふらつく足で改札に向かった。途中でバランスを崩しプラットホームの点字ブロックと正面衝突した。凸凹が腹に当たって痛かった。「ほら危ないだろう何やってるんだ大丈夫か」と饗庭が立ち塞がるので「どけよ」と点字ブロックと抱擁しながら言った。黄色が目に眩しくて彼は目を細めた。「どけよぉ、おい、何だよぉ、お前ぇ、お前がさ、連れて行ってくれるのかよぉ、くれねぇんだろぉ、あぁつまんねぇ、何でだよぉ、あぁどっか行きてぇ、なぁ、なぁあ、連れていってくれよぉ、俺をさぁ、何か、どこでもいい、どっかにさぁ」。足に噛み付くと饗庭はどいた。ゆるゆると立ち上がり今度こそ改札に向かった。もう追いかけてくるものはいなかった。
外に出ると雨だった。千曲はシャワーを浴びるような気分で歩いた。水分を吸った衣服は異様に重たく不摂生な彼の身体には大変な負荷であった。余りある水分を零す衣服に倣って湿ったコンクリートを眺めながらスニーカーを擦りつけて歩いた。首を曲げて足にすり寄る野良猫の気持ちが染み渡るように分かった。満足した彼はもう重力と戦うことを止めて再び地面の上に寝転がった。打ち付ける雨はそんな彼を糾弾するかのように降り注いだ。冷たいを通り越してそれは痛かった。あまりの痛みに千曲は泣いた。泣いたのは五年前彼の応援するスポーツチームがリーグ優勝した時以来だった。引退する選手のことを思い出して余計に悲しくなった。「誰かぁ、誰でもいいから誰かぁ、助けてくれよぅ、どこかに俺をさぁ、連れて行ってくれよぅ、もうここはいいよ、飽きたんだよぉ、見飽きたよ、聞き飽きたよ、ねぇ、誰かぁ」。しばらくして千曲は身体に重みを感じた。水分以上の重みを感じた。首を動かしてみると彼の背中には人が乗っていた。髪の長い少女だった。白いワンピースだけを身に付けていた。髪もワンピースも雨に打たれてくたびれたようにしかししっかりと彼女の肌に張り付き身体の線を浮き彫りにしていた。伸びる手足は服と同化するぐらいに色がなかった。彼女の指は千曲を抱きしめるように湿った服に食い込んでいた。彼女のまつげが雨を滑らせるように弾いていた。目の中に千曲の表情が映し出されると彼女は「うぅ」とだけ言った。
作品名:二番ホームから電車が発車いたします(かわの) 作家名:早稲田文芸会