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早稲田文芸会
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夜明け前(奥貫佑麻)

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師匠とか言ってしまったが、それはセイちゃんには届かなかった。とっくに電話は切られていて、画面には通話終了の表示が可愛らしく光っていたからだ。今ごろナイフを研いで、刀身をベロでドラマチックに舐めながら、「イヒヒヒ」とか笑っておれの部屋に近付きつつあるに決まっている。そしておれはグサグサ刺されて死に、翌日の三面記事にコトのあらましが載るに違いないのだ。ふざけるな! 死にたくない! まだ古本屋で買ったエロビデオをちょっとしか見てないんだ。「新婚四ヶ月Fカップ人妻 夫の同窓生マッサージ師に寝取られて」の他にも、「前代未聞の超スケベエッチ&騎乗位 市川ゆいな」と、「ドS美痴女の咥えてアゲル」が残っているのに。
ふとおれは妹のナオがテコンドーを習っていたことを思い出した。近所に道場が開かれていて、好奇心豊かなナオを両親はうまく口車に乗せたのだ。結果として、地方大会のトロフィーが貰えるくらいにナオは成長した。まあマイナーな格闘技のしかも女子部門でスゴいからってなんなの? とそのときのおれはメチャクチャ冷めていた。だが、ナオのテコンドーは、セイちゃんの狂いっぷりに唯一立ち向かえるものなんじゃないか? 幼いころのおれは、ナオのパンチとキックでずいぶん多くの青あざをつくったものだ。命が危ないんだからさっさと連絡しよう。
「もしもしナオ?」
「兄貴なんでこんな時間に電話してくるのー? いま何時……って、えぇ! 四時じゃんかー。何考えてんのバカ。明日ミーティングあんだよ?」
「いいから! 今おれ殺されそうなんだよ。付き合ってた女の二号くんが」
「はあ? もうね、どうせくだらないケンカかなんかでしょ?」
「聞けよ! お前テコンドー習ってたじゃん。あれ今でもできる?」
「何わけわかんないこと言ってんの。あのさあ兄貴、たしかに、あたし中学二年までテコンドーやってたよ? けどそのせいでどんだけイヤな目に遭ってきたと思ってんの? 好きな男の子がいたんだよ。キズキくんっていうんだけど、そのキズキくんがね、テコンドーやるようなコとは付き合えないって、え? だからそれが中二の話で」
「分かったよ! だけど今ホントにヤバいんだよ手錠が――」
切れた。どっちかが通話を終えたのではなく、おれのケータイの電池がなくなってしまったのだ。セイちゃんと長電話してムダにだらだら事情を聞いていたツケがここに回ってきた。話しているときからピッピッというアラームが鳴っていた気がするのは、警告音だったのか。そもそもナオを巻き込むようなマネはせず、ただ警察に通報すればいい話だった。セイちゃんと言い争って気持ちが高ぶっていたのと、殺されるのが怖いのとで、まともな判断さえできなくなってしまったのだろうか。このまま怯えていれば、今までとは違うメカニズムでションベンも漏らしてしまうんじゃないか。
ションベンを漏らしてしまった。ああこれでおれはもうションベンをガマンしなくていいんだ、と口元がゆるむと同時に、とうとういい歳こいてお漏らしをしてしまった、と涙の浮かぶ目の焦点が合わずに、視界はだんだんボヤけていった。股が濡れ、パンツとズボンがぴったりと肌に貼りつき、生温いニオイが漂って鼻がイライラした。ションベンの出る音が服越しにトロトロトロ~みたいに響いて、それがこの世界の音の全てのようだった。さっき交尾していたニャン太もニャン子も含めた全ての夜行動物、そしてこの街で目覚めている全ての人に聞こえているかのようなションベンの音だった。