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早稲田文芸会
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夜明け前(奥貫佑麻)

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なりふり構っていられない、大声を使って隣人でも誰でも呼ぼうと息を吸い込むと、肺にホコリが詰まったように咳が出まくった。そこで初めて、ベッド下のフローリングにチリやゴミがそこそこたまっていること、そして数時間ずっと硬い床に横たわっていたため、体中がきしみ、痛んでいることが分かった。諦めずに数十回は叫んでみたが、気付いてくる人は誰もいないみたいだった。もしかすると、単にキレてトチ狂っているヤバいヤツだと思われてシカトされたのかもしれない。
ドアが力強くバシバシ! と叩かれたのは、DVD&ビデオプレイヤーの時計が午前五時を指したときのことだった。「いるんだろ! おい!」という生ホモ声が玄関の向こうでわめき、ノブが壊れそうなほど揺さぶられているらしかった。そのうち静かになったと思うと、セイちゃんは窓の方に回り立っていた。茶髪はちょっとクセがつけられただけでどっちかというと大人しい形だったし、黒ぶちメガネに紺のジャケットを着た姿で、どう見ても人を殺しそうなタイプじゃなかった。だからこそ逆にリアルにおれは殺されそうだ。おれと目が合ったとき、セイちゃんの表情は崩れ、眉が八の字に吊り上がり、口を広げて右側だけ歯をむき出して笑ったが、左側がナナメ下に歪んだ。右手のナイフの柄でためらう様子もなしに窓ガラスを割り、カギを開けた。スニーカーのヒモがほつれた土足のままで部屋に上がり、
「なんで逃げてねえんだよお! ホントに殺しちゃうだろー!」と泣きだしだ。床に散ったガラスのかけらを踏みつけてキリキリ言わせながら砕く。
おれが必死に「手錠が……」と弁解しかけても、全く耳を貸そうとせず暴れ回った。
「ヤエコはさあ、オマエのどこがいいんだろうね! 畜生! 愛してたんだぞ! 愛してたのに! こんなに、くそっ、こんなに愛してたのっ! それをオマエが! オマエがっ!」
本棚を荒らし、机の上を払った。ベッドを「こんなに」という言葉に合わせて突き刺し、また「こんなに」と言っては突き刺した。はみ出す綿をちぎって投げ、それはおれの体や顔にくすぐったく落ちた。気が済んだのかおれを見下ろし、そうして、おれの股に小さな水たまりができていることを知ったようだった。「何? これ」と顔を近づけ、「くせぇっ」とうめき、次におれを見て「これ、まさか、オシッコ?」と訊いた。おれは顔が赤くなるのを覚えながらただ黙っていた。セイちゃんは爆笑した。
「うはははは! そんな刺されるのが怖ぇのかよ! みっともねえ! 歳いくつだってオイ! 恥ずかしーなー。オシッコくせーんだよボケ。チンコ臭わすなっつの! 逃げりゃいいじゃねーの。んあ? こっちの手錠はなんだよ? なんだよコラ」
おれはこれ以上バカにされたくなくて、一言も発さなかった。
「へー。まあいいわ、殺すし?」
セイちゃんがそう言ってブルブルした手を振り上げた。そのスネを、おれは反射的に足払いで強く打っていた。「っああっが!」とセイちゃんはうずくまり、その顔面におれはもういっぺん蹴りを突っ込んだ。床に倒れたセイちゃんが起き上がる前に、おれは今度こそ大声で助けを呼んだ。セイちゃんの開け放った窓から、そのSOSは前よりずっと行き渡るはずだった。強い風が部屋に流れ、カーテンがひるがえった。庭を囲う植木の向こうで住宅街はまだ明かりをつけず、夜空はずっと遠くまで暗いままだった。「てめっ」と起き上がったセイちゃんは、勢いよくナイフをおれの脇腹に刺し込んだ。激痛は皮フの表面から内臓までめぐった。素早くナイフが抜かれると、刃のギザギザが体内をえぐり、削り取った。血がブブッと屁みたいな音で噴き出したとき、セイちゃんの方が大きな悲鳴をあげた。
「アアアアアアアア!」
おれは風が体の中に透き通るのを感じながら、脈に合わせて血がこぼれるのを眺めた。なくしたカギは、もしかしたらその血に紛れて出てくるのかもしれないとふと思った。セイちゃんは壁に手をついて姿勢を保とうとしたのか、その指はテレビの電源に触れた。エロビデオが始まり、奥さんがマッサージ師に体を撫でられながら、「あなた、ごめんなさい……ごめんなさい……」と喘いだ。アダルトショップのオヤジの禿げ頭がテカっていたのを思い出した。ナイフの血がしたたった。と思うと、その切っ先はおれの胸に振り下ろされていた。