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早稲田文芸会
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ストイコビッチのキックフェイント(笠井りょう)

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着替えを終えてスタジアムを出ると、「やっちゃん」が運転席に乗った私の車が待っている。私がシートベルトしたのを確認した「やっちゃん」は、発車して、その日のダメ出し。試合中に私が犯した8つのミスをすべて指摘された。私の見積もりだと今日のミスは4つくらいだった。甘かった。「やっちゃん」は試合開始のホイッスルから試合終了のホイッスルまでのすべてのボールと人の動きを記憶できる人なのだ。頭のなかに自動式大容量の動画記録機器があるようなもので、「やっちゃん」にとって大切だったり、思い出深い試合はみんな切れ目なく録画されている。現役時代は、試合中いつも、本人の意志とは離れたところで、これまでの試合での敵・味方のすべての動きが脳裏で瞬時に再生されていたらしい。次に打つべき最善の一手が常に見えていたということだ。言語操作技能検定協会会長になれたのも、この記憶力が前向きに評価されたからだ。
信号待ちで一旦停車して、SONY製ウォークマンで音楽を聴く猿のように目をつむって、「やっちゃん」にしか見えない聴こえない何かを視聴してから、納得したように数度うなづいて、
「あのスローインあったじゃない」
「どの?」
「恵梨が投げて智美がトラップしそこねたやつ」
「って?」
「あ、ごめん。別の試合のだった」
んーとねぇ、と言って、私にもその時のことがわかるような場面と関係人物と試合状況を探している。そのうちに信号が替わる。発車。
「そう、あれ」と言うから、
「思い出した?」
「いや、違うかもしれない」
「いいよ、頑張って思い出して」お年寄りから思い出す楽しみを奪ってはいけない。
「佳奈子が怪我してた時の試合あったでしょ」
「夏の?」
「……あ、違うな。佳奈子じゃなくて大西だった」
大西は「やっちゃん」の高校時代のチームメイトで、口下手で歌が上手くて、いまは整骨院でお年寄りの肩と腰を揉む仕事をしていて、幼い頃の私とも何度か会ったことがあるらしい。
けっきょく「やっちゃん」は自分が言おうとしていたことがどれなのか絞込みきれなかった。その場面で私が三歩下がるべきだったのはサッカー界の常識からして明らかなのに、どの場面かがわからないからどうしようもない。
実家に着いた。爺ちゃんにメールする「やっちゃん」。玄関先まで呼びに行けばいいのに、冷たい、と爺ちゃんはまた愚痴るんだろう。「やっちゃん」はふだんは無口な文字文化圏の人で、爺ちゃんはふだん口やかましい非・文字文化圏の人だ。家から爺ちゃんが出てきた。NIKEのヘアバンド、NIKEのウォームアップスーツ、NIKEのスポーツバッグ、NIKEの靴下、NIKEのトレーニングシューズだ。これから二人で市の体育館へフットサルをしに行く。「やっちゃん」が降りた運転席に助手席から移って、扉を閉めて発車、並んで仲良く歩く二人を追い抜く。部屋に戻って、夫と子供の世話を焼いてから眠る。