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馬鹿な事を──。そう、言葉にしたつもりが、続かず咳き込む。乾いた喉が痛みを増してゆく。
そうしてまた、乾く。
「だいじょうぶ?」
「来るな!」
餓えている。
「来るなよ……」
項垂れた眼の先に、輝く水面が映った。
惨めだった。
本能も心も、決心さえ何一つ貫けずに、只こうやって這い蹲って死に損なっている自分は──……。
「わたしたちは、花を食べてる」
見上げる。黄色は、近づく。
洞の縁に立ち、伸ばした手は、その牙に触れる。
「あなたはわたしたちを食べる」
花の粉だろうか。くすぐったい妙な味が伝わり、黒はそのなんとも言えない感覚に、黒は目を細める。それは不快ではなかったが、好きだとは言い難いものだった。
「そう、だ」
ようやく、それだけ答える。乾く。乾く。
「うん」
黄色が頷き、白い花が揺れた。かさり、と。
「だから、くるしいんじゃ、ないって」
そう言って泣き出しそうなまま、それでも。
「おんなしだったんだねって。ごめんなさいを、言いにきたんだ」
それでも「獲物」は、笑う。
細い黒の腕が動き、白い花が、小さな手から零れ落ち、遥か下方の流れに飲み込まれる。
黄色い体は牙からは弾かれ、洞の壁に。黒の脚に。
全ては、呼吸も止まるほどの短い瞬間の中で。
「おんなし、だったんだよ。わたし」
糸がその小さな体に絡まり、それでも、震えるそれは必死に手を伸ばす。
「ごめんね……っ」
牙が触れる。
牙に、触れる。
その時、それは、どちらが先だったのだろう。
「どうして」
乾いた声は、微かに。
「どうして……」
ずるり、脚は、壁を掻き、
「お前なんか助けなきゃよかった……っ!」
あの日。
お前が、
他の奴らみたいに、憎んで、
恐れて、
怯えて、
無様に命乞いをして、
惨めに、なのに、蔑んで。そうして
もしもお前が……
あの日、笑わなかったなら。
落ちてゆく羽を見る時感じた、訳の分からない痛みも、
あの日から薄れない母の笑顔も、
生きているという事にも、
なにも、気付かない振りを出来たのに。
「わたしは、花を」
小さな手が、黒の長い脚に触れる。
「だから、あなたも、わたしを」
花は、奪うわたしをきらいかもしれない。違うかもしれない。
でもわたしには花の声は聞こえない。
わたし、あなたに分かる声でしゃべれてよかった。
おぼえてて。
わたしはあなたのこと、すき。
だからくるしまないで。
だから、あなたも、わたしを
「馬鹿」
餓えは増していた。限界などはとうに過ぎていた。
「食事」をしたかった。
例え殺しても。生きる為に。
そうしてそれ以上に、その笑顔が見たくて。
そいつに、笑って欲しくて。
だから、もう、よかったんだ。
「お前みたいなチビ食ったって、糸の無駄なんだよ」
「……ちっちゃくて、ごめんなさい」
「……ばか」
黒は、僅かに笑った。つられる様に、黄色も笑う。
それはまるで、降りだしそうな雨の様に、儚い微笑みであったけれど。
「もう」
「もう来るな」
黒の蜘蛛は、小さな黄色の蜜蜂に言った。
「今度は食っちまうかもしれない」
そうして、またあの日と同じように、くっ付いた糸を取ってやった。
それから。
いつしか糸を張ることも、動くことすら、やめていた。
流れる空と、流れる水面。さらさら、さらさらと。そうして、黒の蜘蛛は只、息をしていた。
気まぐれで助けた小さな蜂。
色とりどりの小さな花。
呟いた小さな声。
ちぎりかけた幼い腕。
失くしたくなかった小さな笑顔。
黄色い花。
ふと、網の中心を見た。
ぼろぼろの糸にやっと掴まっている花弁が映る。
色彩を失い始めた黄色は、それでもまだ鮮やかに。
這うように。もう声すら出ない息で、黒はゆっくりと糸を辿ってゆく。
風が吹く。
糸が散る。
長いこと晒されたままだった網が、もう駄目なのだということなど、蜘蛛は知っていた。
少しづつ、今にも飛ばされそうなそれに手を伸ばす。
あの日、
子供だった自分は、救えなかったけれど。
糸が、風に、溶けてゆく。
「そんなに花を抱えてどこへ行くの?」
「うん、ちょっと川まで!」
「……川下の木には恐ろしい蜘蛛がいるんだよ、あまり巣から離れるのはおよし」
「……うん、大丈夫」
黄色は、微笑む。
──あと、数十ミリ。
心の中、黒は呟く。そんな距離なのだ。どうして動かない?
手を、伸ばす。糸が揺れる。
「おばかさん。花はちぎるものじゃなくて、みつをとるものよ。そんなに花びらだけ持ったって……」
「しごとじゃないの」
「え? じゃあ、いったい何をするつもりなの?」
「花を……」
小さな両手に花を。
「川に流すの」
そうして君が笑いますように。
「ったく、毎回、毎……、ひと……の、ちに、ゴミ……撒き散らして……」
声を。
出せたのは、単なる思い込みだったのかもしれない。
(「ったく、毎回毎回、ひとんちにゴミ撒き散らしていきやがって! 何の為に糸張りなおしたと思ってんだ!」)
それは、少し昔吐いた台詞そのままであったから。
(「どこのどいつだぁ、……なあ?」)
ぎくり、と身を硬くする気配。
そうしていつも、木の陰から小さな顔が覗くのだ。
申し訳なさそうに。不安そうに。花の汁と花粉を全身に被って、お世辞にも器用とは言えないそんな姿で。
それを見て、微かに笑った。確かに自分は笑ったのだ。
すると、黄色も笑う。心の底からのように、鮮やかに。
(「なにわらって……」)
「なに、わらって、んだよ……」
その目はもう、目の前の枯れかけの花びらは映すことが出来なかった。
輝くような水面の反射も、もう届かなかった。
穏やかな風だけが黒の体を上を滑り、
黄色い花びらが、糸から離れる。
支えていた二本の枠糸も、ほぼ同時に……切れた。
「そんなことしてどうするの?」
「見せたい人がいるから」
「……まあ、仕事に支障なきゃ問題ないけど」
「とてもすきなの。もう、あえないけど」
「どうして?」
「わたしが行くと、じゃまになっちゃう」
「だから花を贈るの?」
「うん……」
「それで、笑ってくれますように」
手を離す。持てるだけ、と、抱えた花びら達が、浮き沈みを繰り返しながら流れてゆく。
「沈んじゃうんじゃない?」
「大丈夫だよ。……ほら、ちゃんと見える」
届きますように。
苦笑でも、バカにしてでもいいよ。
あなたが笑ってくれますように。
落下はやけに遅く感じられた。
引っ付いてる糸の所為かもしれないと、蜘蛛は川面を見つめる。
花びらはとっくに沈んでしまっていた。
それでもいいと何故だが思った。
「どうでもいい」のではない。
それでいい、と、ただそういうこと。
死に対して抗う気持ちがなかったわけじゃない。
ただ、それを差し引いても、まだ十分幸福だったのだ。