web
その姿はもう、黒く大きな蜘蛛であった。
(「おかあさん」)
雨。
吸い込まれていく黒。
自分を見た眼が忘れられない。
* * *
気付くと、日は中天に差し懸かっていた。外に出て、辺りを見回す。
風が柔らかく、体を過ぎていった。
「糸……」
唐突に思い出す。そうだ、糸。
昨日、引き千切ってしまったそれは、春風を受けて、頼りなく流されている。
「直さないと……」
修復にはそれ程時間は掛からなかった。丁寧に最後の一本を掛け、そこから、川面を眺める。
流れは、変わらずに光を反射していた。
と、
ぴん、とした線の上に、
「……何だ?」
ひらひら舞い落ちてくるそれに、黒い蜘蛛は訝しげに眼を細めた。
網の上に積もってゆく、その一枚を拾い上げる。
──花弁?
そう、声に出す前に。
「たんぽぽ」
「!」
見上げる。
にっこりと、黒褐色の瞳が、闇色の眼に笑いかけた。
「お礼っ!」
そうして、ばさりと黄色い雨が巣に降りかかる。
「うわっ……っ」
「助けてくれてありがとうっ!」
おい……
お前、
「寒くてね、恐かったの。誰も、見つけてくれないかと思って、すごくね、恐くて……」
分かってんのか?
「だから、ありがとう!」
その糸を作ったのは、俺なんだぞ。
* * *
透明な糸の上にはらはらと、蒲公英が揺れる。
「『ありがとう』……?」
その言葉を反芻し、ふ、と考えが過ぎる。向けられた笑顔に、それは更に後押しされる。疑う余地もない。
どうして殺さなかったのかという事。
けれど
「……馬鹿らしい」
黄色の花弁を払う。ぱらぱらと、それは水面の流れに吸い込まれていく。ひらひらと。
──馬鹿らしい。
あれは、只の、「獲物」だ。
そうして自分は只、一匹の蜘蛛であるのだから。
次の日はシロツメクサ。
次の日はスミレ。
次の日も、その次の日もまた、別の花。
「飽きないのか?」
どうせ全て捨ててしまうのに。
「だってお礼だもん」
いつも葉の影から見ているだろう?
全て水に沈んでいく。
どうせ全てそうしてしまうのに。
「迷惑だ」
その時初めて、表情が曇る。
やがて目を伏せ、少し弱くなった羽音と共に、呟く。
「だって……お礼、だもん」
透明な雫。握り締めた花束に落ちて、そのまま。
「……降りて来い」
黒い蜘蛛は低くそう告げた。
「またくっついちゃうよ」
涙声は小さく呟きで返す。
「大丈夫だ。横糸じゃなく、縦の……」
長い脚が、中心から、示すように放射線状の線を辿る。
縦の糸は、触れてもつかない。
そう言うと、小さな黄色い体はゆっくり羽を閉じた。
こわごわと、縦のラインに脚を乗せる。
「くっつかない……」
黒を、見上げる。
「だろう?」
「うん」
小さな花を両手に差出し、
「なみだ、ひっこんじゃった」
そうしてまた、笑った。
黒い蜘蛛は黙って背を向ける。
「あ、待って……」
巣の中へと戻っていく闇色の影を追いかけて、小さな黄色は一歩、脚を踏み出しかけた。と、
「あ……」
慌てて、引っ込む。
一度中心に戻ってまた、折り返し。
縦糸を走り、辿り着く、ぽっかりと開く穴。
黒い蜘蛛が一度だけ、こちらに眼を向けた。
だが、重なった瞬間、それはすぐに前方の深い闇の中へと逸らされる。
「あなたの家?」
そうだ、と短く言葉を返し、蜘蛛は中へと進む。
「……」
中を覗き、黄色がほうっと息を吐く。
洞の中は、入り口こそ僅かながらの光を含んでいたが、
そこから先は全くの闇だった。
深く、躊躇いがちな手と頭が壁に触れる。
「いるの?」
闇に問う。
「いる」
奥へ、奥へ。身体が黒に染まる。
視界は夜に変わる。
天井を見上げたが、月明かりも星影も見えなかった。
「まっくらで、こわくないの?」
先程声がした方へ。
もう慣れた、と更に、奥から。
「ひとりでいるの?」
一歩。
「ああ」
まっくらで。
一人で。
「こわくないの?」
「慣れた」
声だけが、響き……。
やがて、黄色は意を決し、中へと駆け出した。
ゆっくりと目が慣れるのを待ち、暗闇の中の黒を探す。
狭い通路の奥。
暗闇の中、黒を見つける。
その周囲は淡く光が揺らいでいた。
「それ、なあに?」
黒の手の中の──どうやらこの光源であるらしい──ひらひらとしたそれらを指し、問う。
黒は黙ったままゆっくりと黄色に近づく。
「それ、なあに?」
もう一度。
闇色の瞳が、光を反射して陰ったように見えた。
一枚、渡される。
「花びら?」
青白く光彩を放つそれを、まじまじと観察する。
細かに張り巡らされた真っ直ぐの筋、両手に付着する光る粉末。
僅かに香る、よく見知った花の匂い。
「はね?」
気付く。見渡した部屋中に散らばっていたのは……。
闇の中で、きらきらと粉が舞う。
「恐いか?」
じっとその羽を眺め続けている黄色に、黒は呟く様に聞いた。続ける。
「『食事』の残りだ」
黄色は答えない。
「恐いか?」
「ううん」
視線は大きなその「花びら」に向いたまま。
「こわくない」
でも……と、続ける。
「なんだか、くるしい」
そう言って、少し寂しげに、笑った。
ひらひら、ひらひらと、羽が水面へ吸い込まれてゆく。
原色の羽。
褐色の羽。
薄いグレーの羽。
透明な、小さな羽根。
最後の一枚が消え、黒い蜘蛛は小さな黄色を思い返す。
きっと、
もう会わない。
春が少しずつ色を変えてゆく。
沸き立つ季節。獲物は毎日網を揺らす。
「助けて。お願い……」
淡く黄色がかった羽を震わせて、蝶が、祈るようにこちらを見つめる。
(「たすけて」)
細長く、黒い脚がゆっくりと伸びる。
牙が、白の目前にまで迫り……。
「助けて……」
閉じた、瞳。
落ちた、涙。
糸が、
解かれる。
「腹が減っていないだけだ」
吐き捨てた言葉には答えず、拘束を逃れた蝶は空へと飛び去ってゆく。
「それだけ、だ」
自身に言い聞かすように。
それだけ。
もう随分と、食事を取った覚えなど、記憶になかったけれど。
喉が渇く。わかっている。
体は確実に飢えを知らせていた。
微かな呼吸。黒は、洞の入り口から空を見る。
川面から、水音だけが変わらずに響いていた。
一つ息をする毎に、一歩。僅かに。
水面の見えるそこまで。
過ぎる風は朽ちかけた糸を揺らし、乾いた黒の体にも軽やかに感触を残した。
何日か振りに目にした水面は、相変わらずきらきらと
光を映していて、黒は眩しそうにその流れを睨む。
その光が……
一瞬陰って、揺らいだ。
「お前……」
花。
「ごめんなさいを」
鈴のような白い花が、小さな手の中で、揺れる。
「ごめんなさいを言いに」
太陽と黒の間に、それは、揺れる。
「何を……」