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揺ら揺らと水面が滑る小川の端に、一本のタイムの木が生えていた。
春にふさわしい、若々しい枝葉が太陽へと腕を広げていて、時折優しく吹く風が、それらをやんわりと通り抜けていく。
柔らかな季節は、永遠にも似た緩慢さで世界を浸していた。
下から数えて枝七本目。
自然と抉られた木の洞の中に、一点の闇が存在する。
闇は、蜘蛛であった。
ブツブツと何かを呟きながら、洞から這い出てくる。
「全く、大体、でかい図体が無理してこんな枝の間……」
まるで枯れ木のように、ひょろりと長く伸びた黒い脚。
あっという間に枝からその端──細く透明な糸が括り付けられている地点へ──到達する。
「……なんぞ……皮も厚いし、面倒臭えったら……」
糸を辿る。がちがちと鋭い牙を鳴らしながら、尚も、独り言は続く。
「量はあったけどさ」
やがて多角形に張り巡らされた糸の結界の中に至り、
その惨状に、黒い蜘蛛は一つ大きな溜息をついた。
「ぼろぼろだ……」
昨晩きっちり張り直したばかりの網は、ものの見事に大破されていた。横糸は勿論のこと、基盤の枠糸やら巣まで長く続いていたはずの信号糸までもが無残に千切れているのだ。
無数の光の筋が、川面に反射して鈍く輝く。
「カブト虫なんか引っ掛けるもんじゃねえな」
それでも、糸を使い果たしてしまう雀蜂や蟷螂よりは、幾分かマシではあったのだけれど……。
辛うじて繋がっている繋ぎ目に溜まった夜露を乱暴に払い落としながら、また一つ、溜息が漏れた。
枠糸の一本目から網を張りなおしながら、黒い蜘蛛は所々のゴミを払ってゆく。
小さな枝、風に流れてきた蒲公英の種。前に捕らえた蝶の、鮮やかな羽……。
鈍く光る赤や青や黄の色彩がその深い闇の眼に映る。
黒い蜘蛛は一瞬何かを考え込むように腕を止めたが、やがて、大して面白くもなさげに、やはりそれも下へと落とした。
ひらひらと。
枝も種も羽も全て、緩やかに反射した水面にすべて、引き込まれていった。
「憐れだね」
誰にともなく、呟く。その目に表情はない。
水面はまた何事もないように揺ら揺らと光彩を映す。
それっきり黒い蜘蛛は口を噤み、糸を繰り続けた。
* * *
獲物の振動がする。
雨の日だった。
眠りを覚ましたばかりの黒い塊が、洞から外を覗く。
黄色い花。
それが、最初に頭を過ぎった言葉だった。
鮮やかな黄色い花が、揺れているのだと。
やがて花は声を持った。
細かな雨音に混じり、消えかけながら。その泣き声は、断片的に響く。
雨。
寒さ。
孤独。
泣き声。
やがて、止まる。
強く重なってゆく雨音。
気付くと、黒い蜘蛛は水滴に打たれていた。
黄色い、それの下へと向かう。
雨粒は無数に降り注ぎ、書肺も塞がる程に、水が黒い体を流れてゆく。
ずぶ濡れの黄色はぐったりとした様子で網と重力に囚われていたが、まだ微かに「生」の匂いがした。
剥がして抱える。
もうそれ以上の糸も牙も掛けずに。
そうして昨日張り直したばかりの巣は、またも無残に破れてしまったけれど。
雨音。
洞の中、短く息を吐き、黒い蜘蛛は脚を離す。黄色いくしゃくしゃのそれを横たえ、ゆっくりとその全体を黒い単眼が捉えた。
呼吸が零れる。
片手に事足りる程に僅かで弱々しいそれは、小さな蜜蜂だった。
一度だけふるりと体を震わせてから、ゆっくりと目を開く。
「っくしゅ!」
くしゃみ。
「大丈夫か?」
ついそう尋ねてしまった。途端、
「う……っ?」
大きな黒褐色の瞳が向いた。
(しまった……)
舌打ち。眼を逸らす。
単眼のヴィジョンの端に黄色が映る。
そしてその黄色の焦点は相変わらず真っ直ぐこちらに定まっている。
見ている。
見ている。
時折、ぱちぱちと瞳を瞬かせて。そして……
「何だよ……」
根負けしたのは蜘蛛の方であった。
重ねる底無しの闇。射るように、冷ややかに。なのに。
特に臆する様子もなく、幼い瞳は尚も見つめ続ける。
体に絡まった糸を困ったように二、三度擦り、やがて、
それは笑った。
「あなたが助けてくれたの?」
蜘蛛は答えない。
代わりにまた、眼を違う所へと逸らす。
黄色は再び笑う。
「ありがとう」
黒い、
脚が、黄色く小さな体に伸びる。
羽に触れた触肢はその、「獲物」の味を覚えていたし、漆黒の闇は明らかに捕食者の色だった。
鋭い牙は更に近く。
けれども、それだけ。
絡み付いた糸が、するすると解かれてゆく。
自由になった手脚を嬉しそうに動かし、黄色は笑う。
笑ってその眼前の牙に、触れた。
「ありがとう」
声は洞の中、静かに、確かに響き。
乱暴にその距離を離し、蜘蛛は「帰れ」とだけ告げた。
……こんなのは只の獲物なのだから。
「ありがとっ」
洞の入り口で黄色はもう一度繰り返す。
ふわり、体が空へ乗る。
雨はもう随分前に上がっていた。
黒い蜘蛛は入り口に背を向け、かりりと壁を掻く。
左に続く奥部屋には、いびつに節の捻じ曲がった沢山の「抜け殻」が映っていた。
今までもそうしてきた筈だった。そうしてこれからもそうあるべき事なのだ。
只の獲物。
そうだ、腹の足しにもならない位小さな蜜蜂。
牙も刺せぬ程に。
(「只の獲物」)
只の。
(「じゃあ、何故逃がした?」)
何故?
空腹ではなかったから?
取るに足らぬものであったから?
わからなかった
* * *
ずっとずっと昔のことでした。
いつかの雨の日に子供達が生まれました。
小さく、白く、皆、その母親の背で産声を上げました。
小さく、白く、弱いそれらは、自分が無力である事を知っていました。
その母親も、自分の役目を分かっていました。
背負って守っているときから。あるいはもっともっと前から。
一斉に「食事」は始まり、透明に真っ白だった腹部は黒く膨れてゆきます。
大きな闇は白に喰われ、音もなく動かなくなって。
やがて、空っぽになった大きな黒は、たいした重力もなく下へと落ちてゆきました。
ひらひら、ひらひらと。持たぬ羽のように。
白く黒い無数の粒は散らばり、木には只、小さな小さな黒い点だけが一つ、残りました。
だれより大きな白の図体の、誰より小さな黒い点は母親の消えた水面から眼が離せず。
飛び立てずに。
ただ強く、生きていくことを決めました。
何を殺しても。幾ら殺しても。
そうでなければ、裏切りのようで。
時は流れ、川面も流れ、小さな蜘蛛はもう子供ではなくなっていました。鮮やかな羽も透明な羽も同じ黒いそれも、全ては空っぽに。ひらひらと。
だからこの木には只一匹。
雨も
寒さも
孤独も
泣き声も。
だから、彼は
きらきらと、水面。
ゆらゆらと、揺れて落ちてゆく空っぽの黒。
固まっている白の中から一匹、枝の先で見つめる。
ああ、そうか、と呟いた。
春にふさわしい、若々しい枝葉が太陽へと腕を広げていて、時折優しく吹く風が、それらをやんわりと通り抜けていく。
柔らかな季節は、永遠にも似た緩慢さで世界を浸していた。
下から数えて枝七本目。
自然と抉られた木の洞の中に、一点の闇が存在する。
闇は、蜘蛛であった。
ブツブツと何かを呟きながら、洞から這い出てくる。
「全く、大体、でかい図体が無理してこんな枝の間……」
まるで枯れ木のように、ひょろりと長く伸びた黒い脚。
あっという間に枝からその端──細く透明な糸が括り付けられている地点へ──到達する。
「……なんぞ……皮も厚いし、面倒臭えったら……」
糸を辿る。がちがちと鋭い牙を鳴らしながら、尚も、独り言は続く。
「量はあったけどさ」
やがて多角形に張り巡らされた糸の結界の中に至り、
その惨状に、黒い蜘蛛は一つ大きな溜息をついた。
「ぼろぼろだ……」
昨晩きっちり張り直したばかりの網は、ものの見事に大破されていた。横糸は勿論のこと、基盤の枠糸やら巣まで長く続いていたはずの信号糸までもが無残に千切れているのだ。
無数の光の筋が、川面に反射して鈍く輝く。
「カブト虫なんか引っ掛けるもんじゃねえな」
それでも、糸を使い果たしてしまう雀蜂や蟷螂よりは、幾分かマシではあったのだけれど……。
辛うじて繋がっている繋ぎ目に溜まった夜露を乱暴に払い落としながら、また一つ、溜息が漏れた。
枠糸の一本目から網を張りなおしながら、黒い蜘蛛は所々のゴミを払ってゆく。
小さな枝、風に流れてきた蒲公英の種。前に捕らえた蝶の、鮮やかな羽……。
鈍く光る赤や青や黄の色彩がその深い闇の眼に映る。
黒い蜘蛛は一瞬何かを考え込むように腕を止めたが、やがて、大して面白くもなさげに、やはりそれも下へと落とした。
ひらひらと。
枝も種も羽も全て、緩やかに反射した水面にすべて、引き込まれていった。
「憐れだね」
誰にともなく、呟く。その目に表情はない。
水面はまた何事もないように揺ら揺らと光彩を映す。
それっきり黒い蜘蛛は口を噤み、糸を繰り続けた。
* * *
獲物の振動がする。
雨の日だった。
眠りを覚ましたばかりの黒い塊が、洞から外を覗く。
黄色い花。
それが、最初に頭を過ぎった言葉だった。
鮮やかな黄色い花が、揺れているのだと。
やがて花は声を持った。
細かな雨音に混じり、消えかけながら。その泣き声は、断片的に響く。
雨。
寒さ。
孤独。
泣き声。
やがて、止まる。
強く重なってゆく雨音。
気付くと、黒い蜘蛛は水滴に打たれていた。
黄色い、それの下へと向かう。
雨粒は無数に降り注ぎ、書肺も塞がる程に、水が黒い体を流れてゆく。
ずぶ濡れの黄色はぐったりとした様子で網と重力に囚われていたが、まだ微かに「生」の匂いがした。
剥がして抱える。
もうそれ以上の糸も牙も掛けずに。
そうして昨日張り直したばかりの巣は、またも無残に破れてしまったけれど。
雨音。
洞の中、短く息を吐き、黒い蜘蛛は脚を離す。黄色いくしゃくしゃのそれを横たえ、ゆっくりとその全体を黒い単眼が捉えた。
呼吸が零れる。
片手に事足りる程に僅かで弱々しいそれは、小さな蜜蜂だった。
一度だけふるりと体を震わせてから、ゆっくりと目を開く。
「っくしゅ!」
くしゃみ。
「大丈夫か?」
ついそう尋ねてしまった。途端、
「う……っ?」
大きな黒褐色の瞳が向いた。
(しまった……)
舌打ち。眼を逸らす。
単眼のヴィジョンの端に黄色が映る。
そしてその黄色の焦点は相変わらず真っ直ぐこちらに定まっている。
見ている。
見ている。
時折、ぱちぱちと瞳を瞬かせて。そして……
「何だよ……」
根負けしたのは蜘蛛の方であった。
重ねる底無しの闇。射るように、冷ややかに。なのに。
特に臆する様子もなく、幼い瞳は尚も見つめ続ける。
体に絡まった糸を困ったように二、三度擦り、やがて、
それは笑った。
「あなたが助けてくれたの?」
蜘蛛は答えない。
代わりにまた、眼を違う所へと逸らす。
黄色は再び笑う。
「ありがとう」
黒い、
脚が、黄色く小さな体に伸びる。
羽に触れた触肢はその、「獲物」の味を覚えていたし、漆黒の闇は明らかに捕食者の色だった。
鋭い牙は更に近く。
けれども、それだけ。
絡み付いた糸が、するすると解かれてゆく。
自由になった手脚を嬉しそうに動かし、黄色は笑う。
笑ってその眼前の牙に、触れた。
「ありがとう」
声は洞の中、静かに、確かに響き。
乱暴にその距離を離し、蜘蛛は「帰れ」とだけ告げた。
……こんなのは只の獲物なのだから。
「ありがとっ」
洞の入り口で黄色はもう一度繰り返す。
ふわり、体が空へ乗る。
雨はもう随分前に上がっていた。
黒い蜘蛛は入り口に背を向け、かりりと壁を掻く。
左に続く奥部屋には、いびつに節の捻じ曲がった沢山の「抜け殻」が映っていた。
今までもそうしてきた筈だった。そうしてこれからもそうあるべき事なのだ。
只の獲物。
そうだ、腹の足しにもならない位小さな蜜蜂。
牙も刺せぬ程に。
(「只の獲物」)
只の。
(「じゃあ、何故逃がした?」)
何故?
空腹ではなかったから?
取るに足らぬものであったから?
わからなかった
* * *
ずっとずっと昔のことでした。
いつかの雨の日に子供達が生まれました。
小さく、白く、皆、その母親の背で産声を上げました。
小さく、白く、弱いそれらは、自分が無力である事を知っていました。
その母親も、自分の役目を分かっていました。
背負って守っているときから。あるいはもっともっと前から。
一斉に「食事」は始まり、透明に真っ白だった腹部は黒く膨れてゆきます。
大きな闇は白に喰われ、音もなく動かなくなって。
やがて、空っぽになった大きな黒は、たいした重力もなく下へと落ちてゆきました。
ひらひら、ひらひらと。持たぬ羽のように。
白く黒い無数の粒は散らばり、木には只、小さな小さな黒い点だけが一つ、残りました。
だれより大きな白の図体の、誰より小さな黒い点は母親の消えた水面から眼が離せず。
飛び立てずに。
ただ強く、生きていくことを決めました。
何を殺しても。幾ら殺しても。
そうでなければ、裏切りのようで。
時は流れ、川面も流れ、小さな蜘蛛はもう子供ではなくなっていました。鮮やかな羽も透明な羽も同じ黒いそれも、全ては空っぽに。ひらひらと。
だからこの木には只一匹。
雨も
寒さも
孤独も
泣き声も。
だから、彼は
きらきらと、水面。
ゆらゆらと、揺れて落ちてゆく空っぽの黒。
固まっている白の中から一匹、枝の先で見つめる。
ああ、そうか、と呟いた。