カサゴ
厚木市役所を出たこずえと功一はアパート近くにある「かん露」に向かって歩き出した。
こずえと功一は「かん露」の扉を潜った。愛想の良い仲居さんが出て、すぐに二人を案内してくれた。既に料理はおまかせを注文してある功一だった。
程なくして前菜が運ばれてきた。こずえも功一も最初から八海山だ。前菜は綺麗に彩られており、視覚的にも楽しめる。食べてしまうのがもったいないくらいだ。
「俺、来月の頭には正式に復職するからさ……」
「うん。でも、大丈夫?」
こすえが心配そうな顔をして功一の顔を覗き込んだ。
「俺としては大丈夫なつもりだよ。でも、うつ病になると頭の回路が変わるのかな。以前の俺とは違うような気がするよ。課長にも文句を言えるようになったんだ。前の俺なら、課長に怒鳴られただけで萎縮していたと思うんだけどね」
功一は自信たっぷりに笑った。
「功一は命がけで私を守ってくれた。私、二回目のリストカットした後に思ったの。これからは功一のために生きていこうって。今までこんな気持ちになったこと、なかったわ。もう、私、一生功一についていくからね」
そう言うこずえの瞳は真剣だった。
「ありがとう。一緒に病気と闘っていこう。おそらく、俺ももう大丈夫だと思うんだけど、完全だとは思っていないんだ。また、調子が悪くなる時が来るかもしれない……。それはこずえにも言えると思うんだけど、そんな時は支えあっていけたらいいな」
「うん。私も功一を支えるわ。だから、功一も私を支えて」
「もちろんだよ。まあ、この先、平坦じゃないだろうなとは思うよ」
「だから面白いんじゃないの」
「それもそうか……」
こずえと功一はクスッと笑った。そこへ綺麗に盛り付けられた刺身が運ばれてきた。
「うん、マグロもカンパチもイケるよ」
早速、箸をつけた功一が唸った。
「本当、何か高級料亭で食べているみたい……」
こずえの顔がほころんだ。
その後、二人は三合ずつくらい酒を飲んだだろうか。「かん露」は時間を大切にする店だ。ゆっくりと会話を楽しむにはもってこいの店だと言っていいだろう。
二人の前に揚げ物が運ばれてきた。それを見て、こずえは「あっ」と言い、功一はニヤリと笑った。
「これ、カサゴですよね?」
こずえの質問に仲居さんは「そうです。熊本産のカサゴの唐揚げです」と笑顔で返してくれた。
「私、カサゴ釣りが好きなんです」
「えっ、お客さん、女性で釣りをされるんですか?」
仲居さんはちょっとビックリしているようだった。高温の油で揚げられたカサゴは大きく口を開け、ちょっととぼけた顔をしていた。
「二度揚げしてあるので、骨まで食べられると思いますよ」
仲居さんのその言葉に、功一は「骨まで愛して、か……」と呟いた。それがこずえの笑いを誘った。
「私たちって本当にカサゴに縁があるわね」
「そうだね……。初めて新健丸に乗って以来、カサゴとは奇縁のようなもので結ばれているような感じがするな」
「結婚式は教会でするとして、その後の親族の会食はここでしない?」
「いいね。そしてカサゴ料理を出してもらおう」
功一がカサゴの唐揚げを頭からかぶりついた。よく揚げてあるカサゴは、こう食べるのが一番美味い。こずえもカサゴの頭からかぶりついた。
「ふふふ、美味しいね」
「新婚旅行なんだけど、伊豆で船を仕立てて釣りをして、釣った魚で一杯やるというのはどうだい? グアムとか安いけど、俺、海外とか苦手なんだ。どっちかというと温泉の方がいいな」
「私もそっちの方がいい。仕立船って二人とかでも出してくれるの?」
「旅館や民宿を併設している船宿があるからさ。そういうところに泊まって釣りをするんだよ。昔は親父とよく行ったもんだ」
「二人で貸切船なんて海外より贅沢かも」
「ま、結婚式を挙げるのは六月だから、じっくり計画を練ることができるよ」
「ふふふ、楽しみ……」
こずえが幸せそうに笑った。
二月に入り、功一は人事課長から呼び出しを受けた。「復職の辞令が出ている」とのことだった。
功一は胸を張って人事課に赴いた。人事課長は渋い顔をしながら、「もう本当に大丈夫かね?」と尋ねてきた。功一は人事課長の目をしっかり見据えて「この病気に大丈夫という言葉はありません。でも、今は大丈夫です」とはっきり言った。
「神崎功一。復職を命ずる」
人事課のフロアに辞令を読み上げる人事課長の声が響いた。
辞令を貰った功一はそのまま生活福祉課へと戻った。渡辺がにこやかな顔で待っていた。
「ついに正式に復帰したか……」
「はい、これも係長のお陰です。多分、係長がいなかったら私はまだ復職できていなかったでしょう」
功一は照れたように辞令を渡辺に見せた。
「また、釣りに行こうな。ところで新婚旅行は伊豆なんだって?」
「はい。旅館併設の船宿で釣りをしようかと思って……。昔、行ったことがあるんですけど、伊豆のカサゴもいいんですよね」
「じゃあ、神埼夫妻の隣の部屋、俺の名前で予約しておいてくれ」
功一がたまらず苦笑した。渡辺はニヤニヤと笑っている。
「さあ、仕事は待ってはくれないぞ。お前の机はお前のものだ。ファイルを積んでおいたからな」
「はい。燃え尽きない程度にやります」
「それでいい」
功一は久々に自分のデスクに座った。そこはうつ病になる前と違って、少しばかり居心地が良い場所だった。
(こずえ、俺、頑張るからな……!)
それは肩の張らない気合の入れ方だった。功一はファイルを捲ると、記録用紙の決裁欄に自分の印鑑を押した。それは「神崎」と自分の存在を確かにアピールしていた。
(了)