あさっての恋愛
「なんかね、欲しいなぁって思っちゃったのよ」
いつだったか酔った母が玄関に座り込んでそう言っていた。
「それで、向こうにも同じように私を欲しがって貰えたら、もう最高じゃない?」
コップ一杯の水を差し出してぼくは「知らないよ」と返した。母は高い声で「あら、そお?」と応じた。
「こういう気持ちって、むしろ男のほうが強く持っているもんだと思ったのに」
母が言ったように誰かを欲しいと思うことが恋なのだとすれば、ぼくはまだぼくの人生の中で恋というものを経験していないことになる。天神に紹介してもらった女の子だって欲しいとまでは思えなかった。
まあ、思わなくていいんだけどさ。母と同じ手法の恋愛をしたってしょうがない。だいたい『欲しい』なんてなんだか下品だ。そんなのが恋であるわけがない。……と、思いたい。
「ぼくはどちらかというと髪の長い女の子が好きだなぁ」
「はぁ? なにそれ。あたしが紹介した子にケチつけてんの? それともあたしにケチつけてんの?」
「つけているのはケチじゃなくて注文だろう、なぁ藤田。だがしかしショートカットにはショートカットのいいところがあるぞ。襟足、うなじ、肩のラインなどなど」
「ちょ、風間マジキモい。あたしもショートカットなんですけどっ」
「三次元には興味ありません!」
「高らかに宣言しやがったよこいつ」
英語の授業が終わって、いつものようにこんな雑談を繰り広げていたら「藤田くん」と声をかけられた。髪にゆるくパーマのかかった小柄な女の子だった。
「お、愛じゃん。オハヨ」
天神がひらひらと手を振って笑った。ああ、そうだ。水谷愛さん。一昨日天神を介してちょっと話した子だ。にっこり笑って「おはよう」と挨拶を返した彼女の顔が、ぼくの方に向く。
「藤田くん、次授業ある?」
「えーと、ないよ」
「じゃあちょっとお話しませんか?」
はにかんだ笑顔が上目遣いでぼくを見ている。思考が停止したぼくの背中を天神が肘で突いてきた。
「あ、うん。しましょう、お話」
我ながら間抜けな返事だったが、水谷さんは嬉しそうに頷いた。
「立った! フラグが立った!」
どっかのアルプスの少女のように瞳を輝かせて叫びだした風間は天神に黙らせてもらうことにして、水谷さんとぼくは教室を後にした。
お茶でも飲もうか、という彼女の言葉に従って、大学を出る。雲一つない青空。よし、前途は明るい。
「ところで風間、あたしさ、藤田は恋愛よりもまず恋をするべきだと思うんだけど」
「ほう。そりゃまたえらく意味深長だな。で、恋愛と恋の違いとはなんぞや」
「ああ、そっか。ええとね、恋愛は両思いで恋は片思いってイメージがあるのよ、あたし的には」
「つまり奴は片思いを経験するべきであると?」
「そうそう。あいつってなんか、誰かを好きになったことなさそうじゃん」
「そうかもなぁ。まあ俺が言えた義理ではないが」
「それで恋愛に夢見てるんだから始末におえないっつーか……」
「夢を見てる? へえ、天神には藤田がそんなふうに見えるのか」
「だってあいつドラマのような恋愛とか言ってるけど、ドラマだってまともに見てないっしょ」
「…………?」
「誰かを好きだと思う気持ちは無条件に素晴らしいものだと思ってるに違いないよ」
駅前に三件ほど密集している喫茶店のうちで一番学校に近い店に入り、ぼくらは店の奥に陣取った。ぎらぎらした黄金色に塗り潰された向日葵の小さな絵が飾ってあった。水谷さんの話を聞きながら、ぼくは気付くとその絵を眺めている。そんなぼくの様子に気づいてか、彼女は笑ってこう言った。
「知ってる? ひまわりは恋の花なんだよ」
「太陽に片思いをしているって話?」
水谷さんの言葉にぼくは疑問形で返す。
綺麗に笑う人だ、と思った。授業のこととか先生の悪口とかサークルのこととかバイトのこととか、話すことは全然普通のことばかりなのだけど。ピンク色の唇だとか、それが描く緩やかな曲線だとか、そういうことがやたらと強烈な印象を残していく。
「そうそう。でも実際、太陽を追って動くのは蕾の時だけで、花が咲いちゃうともう動かないんだって」
「へえ、そうなんだ」
日を追って回る花だから向日葵、なんて話自体が迷信だと思っていたのだけど。
「好きな相手には蕾より花を見てもらいたいだろうに」
一瞬だけ目を丸くした後で水谷さんは可笑しそうに笑った。
「藤田くん、意外とロマンチストね」
そうかな、と首を傾げるぼくを、彼女はしばらく笑っていた。そして呼吸を整えるように紅茶を飲んで、再び彼女がぼくを見る。それは豹変と言うほどの豹変ではなかったけれど、さっきまでとは確実に何かが違った。
「でも、やっぱり、あれだよね。興味ないよね」
「え」
接続詞が全然なんにも繋いでいない。彼女を見る。悪戯っぽい光を放つ彼女の目に驚いてぼくは瞬きをする。
「藤田くんってさ、私に興味ないでしょ」
あれ、今なんの話してたんだっけ。そんな話してたんだっけ。記憶を辿ろうとするぼくに、彼女は例の魅力的な笑顔で言った。
「そういう態度を取られると燃えちゃうタイプなの、私。絶対振り向かせてやるって思っちゃう」
「…………」
既視感覚。やばい。やばいっていうかダメだ。
「ね、藤田くん」
あーあ、ダメだこりゃ。母さんとおんなじだもの。
「あなたを好きになりました」
どうやらぼくは、欲しがられてしまったらしい。