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さよなら、赤川先生

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 何事にも順序があるので、この夏の成田から話を始めましょう。あの日、私は君が見送ってくれた飛行機で中国へ渡りました。北京からセスナを借りて内モンゴル自治区に入ったのが翌々日です。降り立ったのは空港も何もない、ただの草原でした。パイロットが北京語訛りの「Good luck!」を言って飛行機が飛んでいってしまうと、ぐるり三百六十度、なんにもない草原。遙か向こうに山脈が見えるような気もするんだけど、あまりに距離があってどの山脈にたどり着くにも半年はかかりそうでした。目を凝らせば遊牧民の焚く火の煙や、テントの集落が見えたのかもしれません。でも、私はあいにく目が悪いからね。ほんとに取り残された気分でした。とても静かで、風の音しか聞こえません。教科書に載ってるような馬とか羊とかハゲワシとか、全然見あたらない。風が吹くと草が波打って無限の湖面に立ってるような気分になります。地面に這いつくばってみると、背の低い草の隙間にかろうじて蟻がいました。でも目につくのはそれだけです。蟻は何食べて生きてるんだろう、草かな、ってしばらく考え込んじゃいました。でもとにかく、いつまでも突っ立っているわけにもいきません。私がモンゴルへ来たのは、アイチャ族のキャンプで小説を書くためでした。それから私はアイチャ族の遊牧を追い求めてひたすら歩きました。結局、前述したような不可解な静けさで、蟻以外の生きているものに出会う事はありませんでしたが。十キロ近い荷物を背負ったまま、何日くらい歩いただろう。緯度は高くても夏だから、昼間は靴下まで汗で濡れるほど暑く、そのくせ夜はひどく冷え込みます。ホッカイロ持ってくればよかったと何度も後悔しました。四日目で水も食糧も尽きて、それから数日は朦朧とした意識で朝夕もなく歩いていました。そしてあれは何日目かの明け方頃。私はもう駄目だってへたり込みました。脱水症状からくる発熱が悪化したのです。私はその場に腰を下ろしたまま、立つ事も倒れ込む事もできないで、ただぐったりしていました。ここへ来てから一滴も雨が降っていませんでした。せめて一滴でも降ってくれたらと空を見上げると、どっちを向いてもきれいなブルーのグラデーション。祈るのも嫌になる青空です。もともと私に信仰はないけど、神も仏もあったもんじゃないなって絶望しました。君の顔を何度も思い出した。でも、救いってあるんだね。夜が明けて、遠い山脈から朝日の筋が伸びてくると、なんだか前方の様子がおかしいのです。地面がきらきら光っているように見えます。その辺りは草の丈が長くてよく見えなかったんですが、どうやら太陽の光が地面に反射してるみたいでした。光が跳ね返るんだから水か何かがあるんじゃないかって思って、私は最後の力を振り絞って立ち上がりました。……そのとき飛び込んできた眺め! それまで、朦朧として自分の足元だけ見て歩いていたので気づかなかったのでしょう。私の数歩先では、地面がそこで切れてぽっかり口をあけていました。穴の直径は数百メートルあったと思います。近づいてのぞき込むと、地面は垂直に落ちているのではなく、傾斜になって草原が続いているのでした。離れたところから見れば、それはまさに(形状的にも)「地球のへそ」と見えたかもしれません。巨大なへそのように、穴は落ち込んでいるふうに見えました。そして、奥からは真昼のような明るさの光が放たれています。陽光の反射と思われたのはその光でした。私は決心してその穴へ入ってみる事にしました。
 ところが、斜面を降りていると私はとてもおかしな事に気づき、愕然としました。それは斜面のはずだったのに、いつの間にか(というか、最初からなのですが)斜面ではなかったのです。へそのような形状、と先ほど書きました。ですから斜面は弧を描くように、先へ行くに従って急になるはずです。ということは、十メートル進んだら、斜度は相当きつくなっているはずなのですが、いくら歩いても三半規管は傾斜を感知しません。前を見ても後ろを見ても明らかに斜面なのに、自分は垂直に立っているのです。つまり地球の側が私に合わせて傾くのです。そのまま歩き続けると、さらに奇妙な光景を見る事になりました。地球の傾きは九十度に達し、私は途方もなく巨大な大地のトンネルを歩いていました。これまで「穴の奥」と思ってきた方向は前方に見え、後ろを振り返れば丸く切り取られた夜空が見えます。既に後方は夜でしたが、トンネルは奥からの眩しい光で昼の明るさです。この頃になると、トンネルの先に何があるのか、私は何となく予想がつき始めていました。アイチャ族の伝承を思い出したのです。この民族に伝わるのは世界でも珍しい伝承で、世界を「球」の形で捉える点で、我々にはとても近代的に思えます。その中で、現世は舞台上で演じられる劇であると考えられます。それを表す伝統芸能として彼らは日本の浄瑠璃に似たマタラと言う人形劇を持っていますが、そこで人形の操り手が「内部の人」と言う意味の語で呼ばれる事に象徴されるように、彼らは球状の世界の表面(つまり現世)を、球の内部の世界(いわゆるあの世)が操り、調節していると考えるのです。表面と内部は「穴」で繋がっており、生を終えた魂は「穴」を通って「球」の内部へ戻り、整理、攪拌を経て現世に新しい生命として生まれ変わるというのです。ここがその「穴」ではないか。私はそんなふうに直感しました。では、私は死んでしまったのか? 極限状態で歩き続けるうち、いつの間にか魂だけがずるりと抜け出て地球の内側まで歩いていこうとしているのか? それも全く否定しきれる考えではありませんでした。これを書いてる今だって払拭し切れていません。でも、君がこれを読んでいるのならそんな事はないでしょう。死人は手紙を書かないからね。さて、そうこうしているうちに光はいよいよ強くなってきました。私はその眩しさに向かって歩き続けました。そして……「この場所」に着きました。「ここ」を具体的に描写することはとても困難ですが、いくつか書ける事もあります。「ここ」もまたある種の世界であり、「彼ら」(これも描写できません、ごめんなさい)が住んでいます。「ここ」がどういう場所なのか、僕は書けませんが「彼ら」は描写する事ができるようです。当然ですね、「彼ら」の世界なんだから。私はどうにも形容しがたい経緯を経て、「彼ら」の中でも有力で権威あるな「彼」に会い、「彼」からある「文書らしきもの」を入手しました。これは、「ここ」について「彼ら」の「言葉らしきもの」で作成された「文書らしきもの」です(曖昧な記述を許してください。本当に他に方法がないのです。賢明な如月くんなら分かってくれると信じます)。この「文書らしきもの」を、この封筒に同封します。このあとにつづく五枚の「紙らしきもの」が「それ」です。十一カ国語を話す私もこれを解読する事はできません。……が、心当たりはあります。公園の向こうの商店街の、布団屋のご主人にこれを渡してくれないでしょうか。彼なら、あるいはこれを読み解く事ができるかもしれません。そうなれば、我々の「ここ」についての理解の大きな手助けとなるでしょう。
作品名:さよなら、赤川先生 作家名:めろ