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『イザベラ・ポリーニの肖像』 改・補稿版《前編》

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1.ロバート・ジョーンズ



 夕暮れのサンタマリア・ノヴェッラ駅、通称フィレンツェ中央駅に一人の男が降り立った。
 背が低く小太り、頭髪もだいぶ薄くなって来ている、一見あまり風体の上がらない男だ。
 黒いスーツにブラックタイの正装、実は生地も仕立ても一級品なのだが、いかにも窮屈そうな着こなしはそれを安物に見せてしまう。
 改札を通り大きく庇が張り出した駅前広場に出ると、男はもう晩秋だと言うのにハンカチを取り出して額の汗をぬぐいドゥオモのドームを見やった。
 ドゥオモのオレンジ色のドームは夕日を浴びて更に鮮やかに輝いている、十五世紀の昔からこの光景はフィレンツェの人々の、そして旅人の目に同じように映っていたのだろう。
 そして、彼の目的地はその少し先にある。
 そこには絶世の美女と尊大で不遜な男が待っている。 
 男の方は用事がなければあまり会いたいとは思わないが、ごく限られた者しか目通りが叶わない伝説の美女との対面には心躍る……ホームを歩くのが思わず速足になってしまう、拭いたばかりの額に汗がにじむのにも構わず……。

 彼は客待ちをしていたタクシーにその丸っこい体を押し込んだ。
「どちらまで?」
「ポリーニ城へ頼む」
「シー」
 タクシーは駅前広場を滑り出した。
「観光ですか?」
 ポリーニ城……ポリーニ家とは、十五世紀に権勢を誇った貴族、当時はフィレンツェの礎を築いたメディチ家に次ぐ権力と財力を持った貴族だった。
 無論、現代までその権勢が続いているはずもないが、政治よりも経済に明るい人物を多く輩出して来たポリーニ家の血筋は絶えずに続いている……昨今ではその台所もかなり苦しいのだと言う噂はよく耳にするが……。
 その館は今でもポリーニ城と呼ばれてはいるが、正確には城ではない、ポリーニ家の居宅、私邸とも言うべきものだ。
 ポリーニ家が政治の中心にいた頃には文字通りの城も所有していたが、それはフィレンツェ市によって博物館に転用されている、残っているのは居宅だけなのだが、それでも『城』と呼ばれるほどの威容を保っているのだ。
 ポリーニ城を訪れる観光客は多くはない、歴史もあって美しい館だが、今でもポリーニ家の居宅であり内部を見られるわけではなく、鋳鉄で出来た凝ったデザインの門扉の彼方にその外観を垣間見れるだけだ、それゆえに客を乗せてポリーニ城を告げられることはほとんどない。
「いや、仕事だよ」
「へぇ……ポリーニ家に出入りされてるんですね」
 それでもまだ、運転手はせいぜい行商の類……まぁ、ポリーニ家に出入りするくらいならかなりの高級品ではあるのだろうが……だろうと思っていた、それとも宝石か何かを買い付けに行くのかも……その程度に考えていた。
「お客さん、着きましたよ、十五ユーロ……え?」
 料金を受け取ろうとした運転手は目を丸くした。
 鋳鉄製の大きな門が重々しい音を立てて開き始めたからだ。
「玄関まで行ってくれるかい? ここから歩くとなるとちょっと骨なんでね」
 風体が上がらない男だと思ったが、落ち着いた声で言う……思ったよりずっと大物なのかも……。
「車寄せに付けても良いんですかね」
「構わないよ、私は招待されて伺うんだからね」
「あ、はい、わかりました……いや、フィレンツェで三十年以上運転手をやってますがね、この門から中に入るのは初めてですよ、帰ったら女房に自慢できますよ、今日はポリーニ城の玄関に車を付けたんだぜってね……着きましたよ」
「二十ユーロで足りるかい?」
「充分でさぁ」
「つりは取って置いてくれて構わないよ」
「ありがとうございます、あ、ちょっと待ってください」
 運転手はさっと車を降りて後部ドアを開けた。
 普段そんなことはしないが、この車寄せではそうでもしないと格好が付かないような気がしたのだ。
「ありがとう」
 小太りの男が車を降りると……。
「お待ちしておりました、ジョーンズ様」
 いかにも『執事』と言った風情の男が大きな扉を開けて出迎えた。

(こんなことって本当にあるんだな……)
 運転手は落ち着かない気分だった……美術館や博物館に転用されている館はいくつも知っているが、『現役』の館は初めてだったのだ。
 黒スーツに白い帽子、白い手袋でなかったのが場違いに思えた……。
(それにしてもあのお客さん、どういう人だったんだろう……)

 客の名はロバート・ジョーンズ、英国二大オークション会社の一方の雄『クリスチャンズ』の絵画部門責任者だ。
 そしてジョーンズは運転手以上に緊張していた。
 仕事柄、貴族や富豪の館を訪れる機会は少なくない、だがその中でもこの館は別格だった、だがそれで物怖じするような男でもない……実は今日、ポリーニ家を訪れたのは『幻の名画』をオークションで扱ってもらえないかと言う打診を受けてのことだったのだ。
 
『幻の名画』……このポリーニ家にあって門外不出とされて来た絵画だ、ポリーニ家に招待された人物でもほんの一握りの人物しかその絵を見たことがない。
 だが、その一握りの中にフランコ・コンティーニが居たことで、その絵は『幻の名画』と呼ばれるようになった。

 コンティーニ家も名門中の名門、特に十五世紀、ウフィッツィ美術館よりも百年ほども早くフィレンツェ美術館を創設したことで名高く、代々その当主が美術館の館長を務めて来た。
 だが、ウフィッツィ美術館の名声が高まって行くのにつれて、逆にフィレンツェ美術館は輝きを失って行き、一時は存続の危機にまで陥ったのだ。
 その時に優れた手腕を揮ったのが当時の当主、フランコ・コンティーニだった。
 財政危機に陥っていたフィレンツェ美術館だったが、美術を見る確かな目を備えていたフランコは、私財を投げうって世界中の優れた美術品を買い集めた。
 無論、当時から名の売れていた芸術家の作品も少なくなかったが、無名の芸術家の作品であっても、フランコ自身が優れた美術品だと認めた作品は買い求め、展示した。
 フィレンツェ美術館に展示されると言うことは、フランコ・コンティーニに認められたと言うことに他ならない、そのことがきっかけとなって世に出た芸術家や、見直されてその作品の価値が高騰した芸術家も少なくない。
 そして、優れた作品を数多く所蔵、展示するようになったフィレンツェ美術館は持ち直し、現代に至るまでウフィッツィ美術館などと並ぶ世界有数の美術館と称されている。

 そのフランコ・コンティーニは件の絵画を絶賛し『ぜひフィレンツェ美術館に譲っていただきたい、この作品一点のために展示室一つを丸々空けておきますので』と再三にわたりポリーニ家に申し出たが、ポリーニ家は遂に首を縦に振らず、フランコは死の床にあっても『あの絵を所蔵することが出来なかったのだけが心残りだ』とまで言ったという。
 限られた貴族の、それもごく一部しか目にしたことがなく、フィレンツェ美術館を世界有数の美術館にまで押し上げた男が生涯をかけて熱望し、叶わなかった絵画が存在する……それは二十一世紀の今でさえ美術界の伝説であり続けている、それゆえに『幻の名画』なのだ。


「ただいま主人が参りますのでこちらでしばらくお待ちを」
 客間に通されたジョーンズは室内を見回した。