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亨利(ヘンリー)
亨利(ヘンリー)
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おしゃべりさんのひとり言【全集1】

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その35 日航機123便



酔っぱらって、お風呂に浸かったままで寝てしまったんです。
ブクブクブクって慌てておきた時、状況がつかめず(飛行機が海に墜落したんだ)と思って焦った。

それにはこんな経験があったからだ。

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1985年8月12日。僕はニューヨークの国連センタービルにいた。
見学ツアー中にガイドの日本人職員が、日航機が墜落したらしいと教えてくれた。

ボーイング747、所謂ジャンボジェットには、500人以上の乗員乗客。
日本で発生した最も大きな航空機墜落事故。
アメリカに短期留学中に聞いたニュースで、他人事じゃいられなかった。
その日以降、僕の記憶には、強烈な印象で残っている。

僕ら留学生は8人の班で構成されていて、そのニュースを聞いて、皆不安を口にしていた。
全国から選抜された高校生達だけど、その中に同じ高校で同じクラスの生徒Kがいた。
Kとは申し合わせたわけではなかったのに、偶然、選抜試験の結果発表会場で会い、彼と同じ班になれるように、主催者側にお願いしていた経緯があったんだ。

僕らは翌日に、ニューヨークJFケネディ空港から、ロサンゼルス国際空港までのフライトを控えていた。
日本の航空会社は信頼度が高いはずなのに、このタイミングで落ちると、アメリカの飛行機に乗るのも怖い。
まだ英語は上達していない頃の僕でも、他の乗客や乗務員が、日航機事故のことを意識している雰囲気が伝わってくる。
しかも、この日のフライトは条件が悪かった。
乱気流注意のアナウンスが多く、心配で心臓が締め付けられる。

この日までに、4回のフライトを経験していたが、当然まだ慣れるほどではない。
飛行中、シートベルトは外したいが、不安が先に立ち、またそういう案内がされていたのか忘れたが、僕もKもずっと装着したままだった記憶がある。

目的地に近付くと、結構揺れた。
悪い想像ばかりが脳裏によぎる。
それは僕だけじゃないはずだ。
周囲の人も皆、心の中で祈っているのが分るほどの雰囲気である。

>皆さんは飛行機で、どれほどひどい乱気流に遭った経験があるでしょうか?

僕はその後に200回以上搭乗していて、似たようなこともありましたが、あの時ほど怖かったことはありません。

あと少しで着陸だと思う時間まで、ガタガタ揺れる。フワフワする。胸がオエーってなる。
ずっとこんな感じで、トイレにも行けない。
乗客の動揺もこの時は特別で、ほんの少しの衝撃にも悲鳴が上がっていた。

飛行機の翼が上下左右に振られるような感覚の後、横に滑ってドリフトするように感じたり、機体が持ち上がって大きな重力を感じたりする。
そしてついに、あの瞬間が。

ストーーーーーン!

フリーフォール。正に無重力に落下している感覚。
ジュースのコップや小荷物が宙に舞う。
その後、ガッタン! と急に重力が戻る。

エアポケットと言うやつだろうが、後にも先にもあれほどの衝撃を体感したことはない。
その衝撃の瞬間、天井から酸素マスクが落ちてきた。

機内は騒然、叫び声が上がって、酸素マスクに手を伸ばすが、僕もKも宙を舞うマスクを、すぐに掴むことが出来なかった。
と言うより、座席にしがみ付くのがやっとの人もいる。
やっとマスクを口にはめたが、その後は何事もなく、Kとお互いに顔を見合わせても、笑いが噴出する気分ではない。

その数分後には、飛行機は無事ロサンゼルス国際空港に到着した。
ギア(車輪)が地に付いた瞬間、歓声と口笛、拍手喝采が沸き起こった。
あれ以上のことを何十分も体験し墜落したのかと思うと、日航機事故の恐怖は計り知れない。

その後、3日ほどロス観光を楽しみ、成田までのフライトは大した揺れもなく、無事日本に帰国できた。
でも僕とKにはまだ、大阪空港までのフライトが待っていた。
成田からバスで羽田に移動して、その飛行機に乗った。
それが、18時発の『日航機123便』
一週間前に墜落した機と同じ便だ。
大阪に着いてから、出迎えた家族に告げられて気付いた。

この留学は夏休み期間中に実施されたのだけど、僕は当初、出国の日を一学期の終業式前に予定していた。
でもKと偶然出会っていたことで、彼の班に入れてもらうべく、僕の予定を一週間後に変更していたのだった。
もし、その変更をしていなかったら、僕もあの御巣鷹山で、命を落とすことになっていた。

それを知ってさらに、大勢の犠牲者に心が痛んだ。
決して軽口では語れないエピソードだが、たしか4人だけ生存者がいた。
その人たちとは比べ物にならないが、僕もまた生かしてもらった一人だと思って、毎年その日が来ると、テレビのニュースに手を合わせている。