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明日は明日の風が吹く

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 夫は抗うつ剤に安定剤を複数個飲んでいたらしかった。当然の治療だと普通ならば思うだろうが、夫は気付いていたらしい。それらの中に、パーキンソン病に合わない薬があることを。早く退院しようとしていたらしいが、薬の副作用(アカシジア)でじっとしておれず保護室内で腹筋や腕立て伏せをしていたらしい。平穏を装っていたが、それが落ち着きがないという風に見られたらしく、入院はさらに延びて三ヶ月後に漸く試験外泊が認められた。
 
 夏は終わろうとしてしていた。夫がいない家で改めて考えていた。果たして夫が幸せならばその死を受け入れられるのかと。そう思わせてくれたのが私のこの腹部の違和感だった。このまま、放置して、もし私が死んだとしてそれが私の幸せだとしたら、夫は受け入れるだろうか。そう思ったとき幸せは、お互いに幸せだからこそ、成り立つんだと気付いた。「もう少し大人しくしててね!」私は、お腹を撫でてそう言った。

 夫が試験外泊の日、思った以上に元気だった。末の娘は、まるで犬のように夫に擦り寄っていた。その夜夫から「死にたい」と聞かされた。真夜中には、じっとしていられない様子で、そわそわし始めた。「アカシジア?」「なぜ?」二つの疑問符は直ぐに繋がった。向精神薬だ。夫は、入院当初より多量の安定剤を飲まされていた。落ち着きがないという理由だったのかもしれない。絶対に退院させると決めて、うとうとした明け方だった。夫が二度目のOD(オーバードース、1度に多量の薬を飲む)を図った。

 
 私は、意識のない夫に向かって「勝手に死なせないから!」と怒鳴っていた。

 帰院直後、私は精神科医に全てを話した。そして転院を希望した。転院先の精神科医にも同じことを話した。私は泣いていた。医師にハンカチを差し出されて、やっと落ち着いた。泣きながら訴えていったのだ。
 医師は全てはパーキンソン病に起因するものかも知れないので、精神科の薬は眠り薬だけにしましょうと言われ、分かってもらえたことに本当に感謝だった。その場で何度も泣きながら謝意を述べていた。
 奇跡の出逢いはその後も続いた。

 転院を機会に神経内科医もかわった。最初は不安だったが診察室から出てくる患者が全て笑いながら出てくるのに驚いた。その疑問は直ぐに溶けた。夫を見た途端「この紹介状違うんじゃない?」というと紹介状を受けた医師が紹介状を発行した医師の治療を否定したのだ。
 普通ならばあり得ないことだが、薬の大幅な見直しをしてくれた。夫が元気を取り戻してくれたのは直ぐその後だった。
 そして、一年後その医師は私に言った。ジスキネジアは、良くならないかもしれない。私の知り合いの脳神経外科医が脳深部刺激療法を始めたのでと紹介された。「まだ付いている」私は自分のお腹で大きくなる物に恐怖を覚えながらそう呟いた。

 2009年の夏、夫は一度目の脳深部刺激療法を受けた。見たことのない安らかな、そして清々しい表情で手術室に入っていった。「大丈夫ですから」医師が言った。夫は多分「煮るなり焼くなり好きにしろ!」と言うだろうと、想像しながら「お願いいたします」と、言い残して末娘と近くの健康ランドに行った。その方が、君らしいと夫も喜んでくれると思ったからだ。

             明日は明日の風が吹く

 お腹の中の物はすでに物体化していた。エイリアンのようになっていたのだ。それでも幸せだった。夫が幸せそうだったから。

 夫は無事社会復帰した。相変わらずいつものように病気に立ち向かっていた。私のお腹の物体は良性の腫瘍だと診断された。後日無事に腫瘍の摘出をした。かなり大きくなっていたため手術を難しくしたらしく、医師には我慢のし過ぎだと言われた。似た者夫婦ですからとは、言わなかったが、。なんだか可笑しかった。
 夫は病室内にも関わらず大声で怒鳴った。
「悪性だったら、どうするんだ!」
 私は「勝手に死なせないから!」と夫に怒鳴っていたことを思い出して、可笑しくてつい笑っていた。

 薬は使いようで毒にもなると、思い知らされた。だけど、今は、優しく微笑んでくれている。

 手術の時、夫に「君に命を預ける」って言われたが預かっている自覚はない。でも私は、強く生きなければと思っている。
作品名:明日は明日の風が吹く 作家名:福地正一