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明日は明日の風が吹く

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夫の痛み


夫が腕の痛みで眠れなくなって一年が経とうとしていた。
 看護師をしている夫にとって、仕事にも支障をきたすほどの痛みだったらしく、痛み止めを多く使用していた。私はその時、見守るしかないと考えていた。私が三十歳、夫が二十九歳だった。

 いつも陽気だった夫が、笑わなくなったのは、さらに一年後のことだった。休日には子供たちと触れ合うことを楽しみにしていた夫が、休みの日は、寝込むようになってしまった。夫が壊れていくように感じていた。

 夫が不思議なことを言ったのは、それからさらに二年経った三十三歳のときだった。
「親父も、悔しかっただろうな」と、義父の写真に何度も語りかけていた。その頃私は気付いていた。いつもなら帰ってくると、カバンをソファーに放り投げていた夫が、自室に持って入るようになっていたことを。

 私は医療事務をしている関係で、薬のことも多少の知識はあった。夫のカバンが気になった。ある日の真夜中そっとカバンの中を覗いた。薬の袋以外目立つものはなかった。薬の袋は二つあった。夫の勤務先のもの、これには痛み止めが入っていた。もう一つは、夫が検査を受けた病院のもの、検査結果は異常がなかったと言っていたはずと思いながら見ると、パーキンソン病に使用する薬が入っていた。
 
 夫は眉間に深いシワをよせ、時々唸りながら眠っていた。隠している夫を責めたくもなった。夫は受け入れられないのだろう。そう思うと聞けなかった。

 夫の腕の痛みは、悪くなるばかりのようだった。私はパーキンソン病について調べ始めていた。痛みより気になっていたのは、足を引きずって歩くこと、腰掛けると左に傾くなど、左手足は間違いなくパーキンソン病の症状だと思われた。
 その頃、既に夫がパーキンソン病の治療を受けていないことは知っていた。夫はまさにさ迷っていたのだろう。痛みに耐え眠れない日々を四年以上過ごしていた。
 当時の一般向けの文献には、パーキンソン病には、震えがあると一番に記されてあって、激しい痛みについては、詳しく記されていなかった。夫には全く震えがなかった。そして、原因不明の激痛。私はさらにパーキンソン病について調べた。

 夫は激痛を治すべく整形外科めぐりをし始めていた。整形外科ではパーキンソン病ではないと否定されたらしく、そこで、最初の手術(胸郭出口症候群)を受けた。
 ところが、一年も経たない内に痛みが再発し次の整形外科へ、そこでもパーキンソン病を否定され今度は頚椎ヘルニアの手術を受けた。
 私の目にはパーキンソン病の症状が確実に進んでいるように見えた。


               パーキンソン病

 パーキンソン病の治療をいつ止めたのか定かではなかったが、頚椎ヘルニアの術後明らかに症状は悪化していた。今となっては、何が正しくて何が間違っていたのかは全く分からない。
 夫はパーキンソン病という病名を頭の隅に置いていたのだろう。私には打ち明けないまま、パーキンソン病専門外来の扉を叩いたらしかった。夫が私に言えなかったのには、理由があったのだと思う。その時、私は妊娠六ヶ月になっていたのだ。

 次女を出産したあと、夫にパーキンソン病を打ち明けられた。思わず、「ありがとう」と言っていた。自分でも思いもしない言葉だった。既に、パーキンソン病については相当学んでいた。色んなことが起こるかも知れない。でも、覚悟するしかなった。夫を信じるしかなかった。先を思い悩んでも仕方ない。夫を支えようと決めた。

 夫のパーキンソン病は、いつからあったのだろうか、きっと二十代からあったに違いないと私には思えた。進行していた夫には薬の効きが悪かったからだ。初期の段階で信じられない量の薬を飲んでいた。
 当時は、パーキンソン病治療のガイドライン(ガイドラインは2001年に発表される。2002年に追記、2011年に新たなガイドラインが発表された)はなかった。全ては、医師の裁量に任せるしかなかったのだ。
 私はさらにパーキンソン病について調べた。特に薬について文献を調べた。色々な副作用について記されてあった。まさか、夫に限って、そのように願う気持ちと祈る気持ちと不安な気持ちとが入り交じっていた。

 薬の効きが悪くて、日々耐えているのが一目で分かった。頑固な夫は、きっと完璧な仕事を目指して、疲れているのだろうと思っていた。発症して五年くらいは、それなりに頑張っているように見えた。しかし、パーキンソン病によるものか、薬の副作用によるものかは、今となっては不明だが、人が変わったように怖いくらい大きく激しい言葉を発するようになって行った。薬の副作用ではないのか?と、主治医にも訴えたが、「そもそも、処方された通りに飲んでいないのは、ご主人の方だ」と、逆に叱責された。私は、だからといって追加で処方して良いのか!と、言いたかったが止めた。
 改めて、パーキンソン病の勉強をすることにした。夫の内服量は確かに多かった。だがそれでも今夫が闘っているのならば、着いていこうと思った。

 夫がパーキンソン病を告知されたのが1999年。その二年前には、一度パーキンソン病ではないかと言われていた。
 パーキンソン病治療のガイドラインが発表されたのが、2001年だった。パーキンソン病の治療は、確かに進歩していると思いたかったし、思っていた。
 

                  精神障害

 発症して八年目だった。私たち家族は、息子と共に息子の大学のある北海道へ引っ越しのお手伝いに向かうことになった。夫は、留守番をかって出ていた。私は、夜勤明けの夫が間に合うように、フライト時刻を目覚ましに設定して、そのうえ時刻を書いたメモに「お願いします」と、添えてテーブルの上に置いてでた。その頃、夫は薬の副作用であるジスキネジアと新たに闘っているとは思いもしなかった。
 一週間後、帰宅したとき夫は無気力状態だった。抑鬱状態だとすぐに分かった。
「お父さん、見送りありがとう」、夫はきっと見送りに行ったであろうと思いそう声を掛けた。それが、よかったのか悪かったのか突然泣きはじめた。
「行けなかったんだよ!」食べてもいないことは一目で分かった。ピクピクと足先が動く、それがジスキネジアだとは思わなかった。

 夫がジスキネジアと闘っていると知るまでにそう時間は、要しなかった。その年の初夏、夫は一回目の自殺未遂を図ったのだった。私はこんな決意もしていた。夫がたとえ自ら命を断ったとしても、それが夫の幸せならば受け入れようと。

 夫は精神科閉鎖病棟保護室に措置入院となった。ベッドに抑制帯で縛られて眠っていた。保護室と言っても名ばかりで、独房と呼んだ方が適切かもしれない。むき出しの和式トイレにベッドしかなかった。夫は、自殺したことを全く覚えていないらしかった。医師は抑鬱ではなくて鬱病と診断し、記憶をなくした理由は、これからの診察にて判断するとのことだった。
作品名:明日は明日の風が吹く 作家名:福地正一