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愛シテル

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 後継ぎとしてりく也は、帝王学を徹底的に叩き込まれた。勉強も運動も、すべての事柄についてトップを義務付けられ、友人も各界の名士の息子達を宛がわれた。こちらも父親の明晰な頭脳を継いだらしく、日本最難関の国立大学を首席で卒業。否応なしにグループ企業に取り込まれるのを嫌って、アメリカの大学に留学した。許されたのは、世界最高の頭脳が集まり、最も進んだ経済学を学べる所だったからだ。りく也がりく也らしくあったのは、この時期だけだったかも知れない。
「りく也には、辛い思いをさせただろうな」
 さく也の細い手が、りく也の頬に触れた。
 兄の事件があって程なく父の愛人に、それから一年後には、あきらめかけた正妻に男児が生まれ、日本有数の財閥総帥の地位を巡って、母親達の熾烈な戦いが始まった。後継者として正式に認められたりく也だが、それぞれの取り巻きが追い落としの機会を狙って、足を掬われかねない状況に置かれた。自分の失脚は、兄の生活をも危うくする。隙を見せるわけにはいかなかった。
 頬に触れるさく也の手の上から、自分の手を重ねて握りしめる。
「辛いなんて、思う暇もなかったさ。さく也の辛さに比べたら」
 辛かったのは、無表情のさく也を見た時だ。長期休暇の度に、りく也はボストンのさく也を訪ねた。また父の了解も取らずに、兄を東京に呼んだりもした。『弟』と『ヴァイオリン』を媒介にして、人と接するようになったおかげで、さく也は精神的にも回復して行ったが、喜怒哀楽はほとんど見せなかった。それが辛くて、その口元を綻ばせるために、りく也は何でもした。
 マシになったとは言え、それは成人しても変わらない。アルコールが入って、やっと人並だった。
「辛かったことはもう、ほとんど覚えていない。リクが与えてくれた幸せの方が、時間も量も多いから。俺は幸せだよ。生まれてきて、良かったと思ってる。だから、あの人に出来るだけのことはしたい。それは理由にならないか?」
 りく也は手を離した。さく也の手も彼の頬から離れた。
 さく也の口数が、アルコールなしに増えている。不思議な物を見るように、今度はりく也の手が、さく也の唇を触った。
「変わったな。ちゃんと思ったことを話せるようになってる」
 兄の口元が、少し綻んだ。
「言葉にしないと伝わらないって、わかったんだ」
 さく也は薄っすらと微笑んだ。
 りく也は浅く息を吐いた。それからICUの中に目を戻す。
 憎みつづけた女がいる。自分に足枷を嵌めた元凶だった。彼女の死を、どれだけ願っただろう。その死を確認することによって、りく也は解放される気がしていた。彼女の生があるかぎり、忌まわしいあの事件を兄は忘れられない、彼の姿を病院で見た時の、言い知れぬ感覚と怒りを、弟は引き摺りつづける――ずっとそう思ってきた。握った拳に力がこもる。さく也が何を言っても、心に沈殿したものは簡単に浚えなかった。りく也の口は、延命処置を拒否する言葉しか吐けない。
 だから彼は沈黙することで、許諾した。
 
 

 ベットの軋む感覚に、りく也は薄く目を開けた。
 遮光カーテンのせいで、部屋の中は暗く、夜なのか朝なのかわからないが、ベットの端に座る人間はわかった。
「さく也?」
 そう呼びかけると、おはようのキスが軽く唇に落ちた。目が慣れて、兄の顔が見えた。
「もう戻ったのか。ゆっくりしてくれば良かったのに」
 手を伸ばして、ベット・サイドのライトをつけた。腕時計を見ると、午前九時を回っていた。
「用は済んだから。それにリクが寂しいと思って」
「何、言ってんだ」
 起き上がりながら、笑い含みでりく也は言った。
 急な仕事が入って、さく也が日本に出かけたのは三日前。往復の時間を考えると、とんぼ返りしてきたことになる。
「連絡くれれば、迎えに行ったのに」
「朝に弱いことは知っている」
「予定があれば、ちゃんと起きるぞ」
「次は連絡する。起きるなら、コーヒーくらい入れるけど?」
「朝飯、食いに行こう。支度するから」
 さく也が頷いたのを確認すると、ベットから下りた。
 浴室に向う為、居間を横切ったりく也の目に、黒い箱が入ってきた。
無雑作に部屋の片隅に置かれた箱。その中には白い『砂』が入っている。先日まで、彼ら兄弟の母親だったモノである。何の感慨も浮ばない。冷たい目で一瞥した後、立ち止まることなく浴室に足を進めた。
 母・中原可南子は、全身に転移した癌細胞による、多臓器不全で逝った。兄弟が彼女の延命処置について話したその日の内、意識を戻さぬままに。
 二人きりで葬儀を済ませた後、遺体は荼毘に付し、散骨することにした。実家の中原家とは絶縁状態だったし、墓という形にして残すことに拘らなかったから…と言うより、残したくなかったからだった。
 散骨の手続きの最中に国際電話が入って、さく也は日本に渡った。日帰りのような日程で太平洋を往復するのは、加納悦嗣絡みの仕事だったからだ。今、さく也は彼に恋をしている。
 りく也も面識のある曽和英介の、同い年の友人だと言うから三十二、三だろう。本職は調律師の、無名のピアニストだと聞いた。親子ほどの年齢差、名士の肩書きを持った今までの相手と違い、年相応の恋だ。
 それに、セックスもまだだと言う。さく也は恋愛対象として好意を持った相手には、体を与えて引きつけようとするところがある。言葉での意思疎通が苦手な彼の、恋愛アプローチなのだ。さく也のその容姿に屈しない人間は、いないと言って過言ではなく、たいてい彼の恋は成就する。『恋』と言っていいものなら…だが。  りく也には痛々しくて堪らなかった。
 しかし加納悦嗣は、兄のその慣例から外れている。
「いったい、どこが良かったんだ?」
 すぐ近くのカフェで朝食を取りながら、りく也が尋ねた。甘やかすほどの地位でも、名誉でも、セックスでもないとすれば、何がこの兄を惹きつけているのか。
「『さっさと位置に着きやがれ』」
 さく也は、およそ似つかわしくない言葉を言った。
「そう怒鳴られた」
「おまえが?」
「うん。ああいう風に怒鳴られたのは、初めてだった」
 大人だった過去の恋人達は、さく也を怒鳴ったりはしなかったろう。
「エースケの為に怒鳴ったんだ。自分のテリトリーに入れた人間は、必ず守ってくれるって思った」
 頬に少し赤味が差した。無意識の照れ隠しが、口にパンを運ばせる。
「それだけ? もっと完璧な相手が、今までにもいただろう?」
「迂闊なところがあって、面白い。優しいけど、甘やかさない。俺と同じくらいに音楽が好きで、ピアノが好きで。普通の人なんだ。一緒に肩を並べて歩いて行きたい、同じ音を追いたい、そう思える人」
 初めての恋を語る少年のように、さく也が加納悦嗣を語る。『普通の人』――だからさく也は、思ったことを言葉にするようになったのだ。彼が話す前に先回りして、理解してくれるほど大人ではない加納悦嗣に、わかってもらいたいために。
「そいつは、さく也のことを、どう思っているんだ?」
「…わからない。でも、嫌がらずに会ってくれる。嫌われてないなら、それでいい」
作品名:愛シテル 作家名:紙森けい