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愛シテル

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epilogue 前編 〜ジェフリー53才 りく也53才〜



Be thou in me dwelling. And thy presence my……(あなたは私の内なる存在。そして、あなたと言う存在は…)




「想像した以上にド田舎に住んでいるんだな」
 車から降りると、ジェフリー・ジョーンズは辺りを見回しながら思い切り伸びをした。
 マンハッタンから何百キロも離れた田舎に、リクヤ・ナカハラは住んでいた。休暇でも取らなければ往復出来ない距離で、ジェフリーが彼に会うのは、だから二年ぶり。空港からレンタカーで数時間――ジェフリーは自分の生活圏を出てから一日近く経ってようやく、リクヤの家にたどり着いた。
 ノックをしたドアから出て来た彼は、少し驚いたように目を見開く。実はジェフリーは、アポイントなしで訪ねて来たのだった。
「どうしたんだ?」
「うん、ちょっと」
 突然訪ねたことに別段嫌な顔を見せず、リクヤはジェフリーを中に招き入れた。
 リクヤはジェフリーの元同僚で、腕の良い救命救急専門医だったが、進んだ老眼を理由に二年前にリタイアし、この田舎に隠棲。主にネット株の取引で生活している。
 こじんまりとした居間に通されて、まず目に入ったのが、変わった形の場違いに大きなテーブルだった。よく見るとそれはグランドピアノで、独特な曲線の部分には高さを合わせた椅子が置かれ、ノートパソコン、書籍、ステーショナリー・グッズやらが、無造作に乗せられていた。書斎机、もしくはダイニング・テーブルの代わりに使われていることが、一目瞭然だ。
 その『テーブル』の椅子ではなく、ソファを勧められた。
「株の方は儲かっているのかい?」
「食い扶持くらいは稼げるさ。多少の蓄えはあるし、ここの生活に金はかからないしな。そっちはどうだ? 相変わらず忙しいのか?」
「現場はね。でも僕はデスク・ワークだから、楽をさせてもらってるよ。誰かさんの穴埋めに呼ばれることもなくなったし」
 二人は同期だったが、途中からジェフリーは言われるがままに昇進して管理職に就き、リクヤはそれを拒んで現場に残り続けた。彼が何かで休まなければならない時には、ジェフリーは管理職でありながらその穴埋めをさせられるのが常だった。何かとセットで扱われることが多く、なので彼が病院を去ると誰も穴埋めを頼まなくなり、現場に出ることもほとんどなくなった。懐かしいな…と、ジェフリーは呟いた。
 ピアノの上の書籍には医学書の類は一つもない。本棚にも。ここを訪ねた人間は、家主がかつては医師だったことを知りえないだろう。本当にその世界から離れてしまっているのだ。
 リクヤが退職すると言って来た時、誰もが引きとめた。確かに忙しいER勤務で視力の衰えは致命的だが、彼は優秀な医師であると同時に、優秀な指導者でもあったから、ティーチング・ホスピタルとしては教授の肩書きででも残って欲しいところだったのだ。
 しかしリクヤは即答でそれを断り、病院を去って行った。
「それで、僕もそろそろ退職を考えているんだ。クリニックを開業しようと思っているんだけど、出来たら君も手伝ってくれないかな?」
 しばらく近況などの他愛もない会話を楽しんだ後、ジェフリーはそう切り出した。
 リクヤは笑った。
「まだ五十三だろう? 早いんじゃないのか?」
「さっさとリタイヤしたヤツが言うなよ。マンハッタンから出て医者の足りない辺りに行こうかと思っているんだ。多少は体の動く年じゃないとね」
 ジェフリーの言葉に、リクヤは肩を竦めた。
「現場を離れて二年だぞ。それにますます老眼が進んだしな。今じゃ眼鏡が手放せない」
「ERみたいなクレイジーな職場じゃないよ。でも田舎町だから応急処置のエキスパートが欲しいんだ」
 今日は是が非でも「うん」と言わせるつもりで、ジェフリーはここを訪ねた。リクヤの医師としての知識と技量が、使われることなく朽ちていくことが惜しかった。
 それにこんな寂しいところで、彼が人と付き合うこともなく、独りで生きていることを考えたくなかった――ジェフリーが思うほど、リクヤは寂しいと思っていないかも知れないし、案外、煩わしい人間関係を作らなくてすむとせいせいしているかも知れない。ただジェフリーが、そんな友人の姿を想像したくないだけなのだ。
「僻地医療に興味があるとは知らなかった」
「実はエレナが…、ああ、最初の妻(カレン)との娘なんだが、夫婦で牧場をやっていて、近所の医者が引退するので、誰か紹介してくれないかと言ってきたんだ。僕もそろそろデスク・ワークに飽きてきたし、余生を田舎医者で全うするのもいいかと思って」
「ふ〜ん、今更忙しいのはなぁ」
 リクヤは気乗りしない風に返事をした。
 彼の退職の理由が、老眼ばかりではないとジェフリーは思っている。その一年前に彼は、最も親しい友人を癌で亡くしていた。ピアニストで、リクヤに惜しみなく友情以上の愛を捧げ続けた人物だ。彼は最後までピアニストの想いを受け入れることはなく、他の誰に対してよりも邪険に扱っていたのだが、むしろそれは、ピアニストがリクヤの中で特別な位置を占めていたように見えた。その死にショックを受けて医師を辞めたとは思えないが、影響がまったくないとも考えられない。
 テーブル代わりになっているピアノは多分、そのピアニストのものだ。
「そんなに忙しくはならないさ。メインは僕がするから、君は手の足りない時に手伝ってくれればいい」
 クリニックの予定地は自然豊かなところにあった。湖があって、森があって。
「魚釣りも出来るし、キャンプも出来る」
 ジェフリーの『プレゼン』を、リクヤは笑いながら聞いている。
「こんなところでパソコンばかり見ていたら、老眼も進むさ。緑の多い景色を見て、もっと健康的に過ごそう」
「そりゃ近眼の予防法だろう?」
「とにかく、本気で考えてくれないか?」
 ジェフリーの言葉にリクヤは笑うばかりで、「イエス」とも「ノー」とも答えなかった。しつこくジェフリーが答えを聞こうとするので、「考えておく」とは言ってくれたものの、本当に考えるかどうかは怪しいところだ。
 それでもはっきりと断らない様子に、ジェフリーは一縷の望みをかける。
「じゃあ、今夜は泊めてもらおっかな。大丈夫、宿代は持ってきたから。ワインにぃ、チーズにぃ、クラッカー。それからキャビアだ」
「いいけど、ソファで寝てもらうことになるぞ?」
「ソファで寝るのは慣れてるさ」
「そうだった、よくドクター・ラウンジのソファを占領してたな?」
「当直のベッドよりは、よっぽど寝心地が良かったからね」
 リクヤが「確かに」と言って笑い、ジェフリーも笑った。
 



 目を開けると、辺りは暗かった。ジェフリーはちゃんとソファに横たわっていて、ブランケットがかけられている。腕時計の竜頭を押すと、文字盤が微かに光り、午前三時だと読めた。旧交を温めるためのワインが程よく回り、酔いと長旅の疲れが眠気を誘ったことが想像出来る。一緒に飲んでいたはずのリクヤの姿はない。ジェフリーは身を起こして、ソファに座りなおした。
 静かだった。聞こえるのは虫の音くらいだ。
作品名:愛シテル 作家名:紙森けい