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短編集44(過去作品)

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 鬱状態で何も考えられないくせに、ふと深く、ものを考えている自分に気付くことがある。どちらかというと子供の頃からものを考えるのが好きで、次々にいろいろなことを考えたものだ。
――そういえば、以前にも同じようなことを考えたことがあるな――
 と感じてもそれがいつのことだったかなど、すっかり忘れている。
 頭の中で考えている時間と、実際に感じている時間はまったく違う。前に考えたことがいつのことだったか覚えていないのもそのためで、それが昨日のことだったのか、それとも子供の頃のことだったのかすら分からないのだ。
――夢を思い出す時と同じだな――
 夢にしてもそうである。いつのことだったかなどすっかり忘れていて、記憶の中に順番など存在しないのだろう。記憶という部屋の中には、いろいろな記憶が散乱していて、現実のものなのか、夢よりもたらされたものなのかという境界もないに違いない。
 働き始めて最初の一年はそんな感じだった。がむしゃらな一年と言ってもいいだろう。
 今から考えれば一番長い一年だったように思うが、その時は、
――あっという間のことだったな――
 と感じていた。記憶のテーブルがいっぱいになるくらいに掛かった時間、それが後から思い出すと長かったように感じさせるのだろう。
 若さからか、時間を感じるのが早い時期というのがある。いろいろなことを吸収しながら、自分を見つめているからに違いない。
――時間など感じている暇がなかったから、あっという間だった――
 そのことを今になって感じている。
 ちょうど入社して一年が経った頃、知り合った女性が妻の弘子だった。
 弘子は、得意先の事務をしている女性で、以前から気にはしていたが、まだ新入社員だという自覚が強かったせいか、自分の本当の気持ちが分かっていなかった。
 実に自分らしくない。
――いつも自分のことを見つめているというのに、どうしたことだ――
 と考えさせられた。
 すべてが自分中心の考え方だ。今でもそれは変わっていない。むしろその方がいいとさえ思っている。
――自分なくして、他人のことなど考えられるものか――
 という考えで、環境によって自分という範囲が変わるだけではないだろうか。
 学生時代や独身の頃は自分自身が「自分」であり、就職すると自分の課が「自分」になる。結婚すると家族が「自分」に、昇進していくうちに会社全体を「自分」として見るようになるのだろう。決して悪いことだとは思えない。
 ある人の格言を本で読んだことがあった。
「十代の頃は自分を、二十代は自分の生まれた里を、三十代で日本を、そして四十代になれば世界を……。要するに、その年代が来るまでにしっかりとした判断ができるように勉強しておくことが大切だ」
 という話だった。
 当たり前のように聞いているだけでは聞き流しそうだが、後半の話がなければ理解できる人も少ないだろう。その話を本で読んだ時、
――何となく心に残るが、ピンと来ないな――
 と思ったものだ。それを思い出したのが、弘子と出会ってからだ。
 その本を最初に読んだのは、学生時代だったので、思い出すと、本棚から引っ張り出して読み直した。自分でもどの本だったかよく覚えていたと思えるほどで、それからたくさんの本を読んだものだ。
 読書は高校時代くらいから増えていった。元々国語はきらいで、特に文章を読み込むような試験は苦手なくらいだったので、本を読むなど考えられなかったが、歴史に興味を持つようになって変わった。
 歴史をもう少し勉強したいと思えば嫌でも本を読むようになる。特に歴史小説の類は、ストーリー展開の面白さに引き込まれるように読み込むので、一日で文庫本を読破してしまうこともあったくらいだ。
 裏を返せばそれだけ現代国語の教科書が面白くないというのも言えるのかも知れない、
 歴史の本を読むようになっていろいろな格言を目にするようになった。日本人がどうしても、和を大切にする民族なので、手放しで承服できない部分もあるが、それでも読んでいて引き込まれる。それだけ自分というものを真剣に見つめなおしたのかも知れない。
 彰浩は、意固地なところがある。こうと思えば誰の耳も貸さないところがあり、それがまわりから、
「自分勝手なやつ」
 と言わせることになる。しかも「自分中心」という考え方をおおっぴらに掲げているので、人から誤解を受けやすい。言い訳に聞こえるのだろう。
 何か失敗をしても、
「自分の考えでやって失敗したのだから後悔などしていない」
 と平気で言い切る。確かに逃げの気持ちがなかったとは言いがたいが、気持ちを素直に表現しているだけの彰浩は胸を張って言っている。きっと同じ考えを持っている人は少なくはないのだろうが、どうしても大衆意見に掛かってしまうと少数派として見られる。小数は、所詮受け入れられない。それだけ目立って見えるし、注目を浴びるので、ちょっとした違う考えが受け入れられるはずもない。
――これが世の中というものなのか――
 と考えさせられたのも一度や二度ではなかったはずだ。
 しかし、
――僕がどこでどのように、誰に迷惑をかけたというのだ――
 開き直りに近いが、そう考えることで気持ちの中のわだかまりが自然に引いていくのを感じていた。スーっとした心地よさに包まれ、安心感と気持ちの余裕を感じることができる。ある意味大人に近づいた気がしていた。
「世の中そんなに甘いものじゃないぞ」
 亡くなった父に高校の頃話したことがあった。
 あれは父が病に倒れ、まだ病状もはっきりしていなかった頃だ。まさか死が近い病いだなどと想像もつかなかった時期で、父も顔色がよく、仕事のことを考えていられる頃だった。会社の人が見舞いに来ては仕事の話をしていたが、
――入院の時くらいは仕事のことを忘れればいいのに――
 と思ったものだ。その顔色は嫌がっているどころか、生き生きしていたように思え、不思議な気がしたものだ。医者の診断では、
「過度のストレスと、疲労によるものですね。入院をされて休養が絶対必要です」
 という話だったのをまともに信じていた。
 仕事を持ったことのない彰浩にとって、仕事とは、
――生活のために嫌々するもの――
 と思っていただけに信じられない気持ちが強い。
 父の威厳はそこにあったのだ。
 他の人に少々何かを言われても気にはならなかったが、父に言われると、萎縮してしまっていた少年時代。その頃は自分でも信じられなかったが、今から考えると、父の中にあった信念に日頃から威厳と怯えを感じていたに違いない。
 だが、それでも病気の時まで仕事のことを考えている父がずっと信じられないでいた。今は仕事に就いている彰浩だが、今でも実は信じられない。
 その時のことがトラウマになっているのか、
――仕事よりも家庭――
 というのが、基本になっている。
 父とは結局、平行線でしかなかった。いつまで経っても追いつけることもなく、背中だけを追いかけていたようだ。父の背中は大きく、子供心に大きな山に見えたものだ。
作品名:短編集44(過去作品) 作家名:森本晃次