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短編集40(過去作品)

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交差する死の予感



                  交差する死の予感



 匂いの違いに敏感な時がある。
 どこからか漂ってくる匂いというわけではなく、空気自体の匂いに違いを感じるのだ。無味無臭だと思っている空気、時々でも違いを感じるというのは異常なことではないのかと心配になる人がいるかも知れない。
 ここに男が一人、石田清隆はそんな匂いの違いを敏感に感じてはいるが、別に自分だけに特殊なことではないと思うので、前はあまり気にしていなかった。
――雨の日なんて、特に感じるよな――
 自分に言い聞かせている。
 石の匂いを強く感じる。雨が降り出す前に感じる湿気と同じように感じるのが、石をかじった時のような匂いだ。子供の頃に友達と遊んでいた時、冗談で石をかじって見せたりしたが、その時に感じた匂いそのままである。かじりながら鼻で息をすると、敏感にかじったものの匂いを感じる時がある。まさしくそんな時だ。
 どうして雨の日に石の匂いを感じるのかという科学的な根拠など知る由もない。また知りたいとは思わないが、しいていえば、埃を吸った湿気が、蒸気となって舞い上がる時の匂いなのだろうと思うくらいで、それならば、他の時にも感じてよさそうなのに、なぜ雨の前兆として感じるのかが分からない。
――人間の嗅覚などあてにならない――
 と嘯く人がいる。確かに同じ匂いを嗅いで、皆が皆、同じ感覚になるかどうかなど分からない。どちらかというと脳に伝わってからどう感じるかという方が重要なのだ。だが、一瞬にしていろいろな感覚を吸収する人間が、ものすごいスピードで判断する中、匂いという部分がかなりのウエイトを占めていることは間違いない。
 子供の頃の記憶を思い出す。学校からの帰り道、よく河川敷の公園で遊んだものだが、その時に川を挟んだ向こう側に大きな工場があった。昼間は絶えず煙突から噴出す煙を見なかった日はなく、夕方になれば、鉄を打ちつけるような乾いた音が鳴り響いていた。
 ゴムの焼けるような異臭が漂っていたが、それが普通だと思っていた子供時代だったので、それほど気になることもなかった。ただ、なぜかお腹が減ってくるのを気にしていたのは、夕日が眩しかったからに思えてならない。
 夕日の眩しさは、足元から伸びる影を壁に浮き上がらせるようだ。オレンジ色に染まった壁に、影が黒く浮かび上がる。立体的に見えるのはきっと自分の影だからだろうが、まるで迫ってくるようで気持ち悪く感じたものだ。
 一緒に身体のだるさも感じてくる。少々のことでは疲れないはずの子供時代、心地よい疲れが身体に残ったのだろう。今になって思い出すと、普通の疲れとは違った爽やかな疲れに感じるのだ。
 匂いとは別に、音でも微妙に違ってくる。しかし、匂いも音とまったく無関係とは言い切れない。例えば空気の乾いている時の音というのは分かるもので、湿度によって匂いの違いが分かるのだから、音によっても匂いの微妙な違いを感じることができるはずである。空気の流れによって引き起こされる現象は、身体が感じることに大きな影響を及ぼしているようだ。
 音に関して言えば、最近耳鳴りを感じる時がある。そんな時は、空気の乾燥している時で、まるで高山に登った時、薄くなった空気で鼓膜が張った時に感じるものと似ている。指先に痺れを感じ、足にむくみを感じる時など、微熱があるのではないかと感じることもある。
 石田氏は、人の死が分かるのではないかと思うことがある。それは思ったからといってすぐに実現することではなく、数日後に実現するのである。それだけに立証もできず、人にも言えることではないので、自分の中でだけ納得させようとしていた。それでも、一人で抱え込めることではないため、最近ではそれがトラウマのようになって自分を追い詰めているようにさえ思える。
「俺は人が死ぬ時が分かるんだ。虫の知らせのようなものがあるんだよな」
 と嘯いている人がいるが、
「何かが見えるのかい?」
「その時々によって違うんだけど、よく言うだろう? 夢枕に立つって。それとは若干違うんだけど、身体に変調があるような感じなんだよね。霊が乗り移るのかな?」
「生霊じゃないか、気持ち悪いな」
 こんな会話を交わしたことがある。しかし、その時石田氏は、まさか自分に同じような能力があるなど思いもしなかったので、まるで他人事のように、話半分にしか聞いていなかった。こんなことならもっと真剣に聞いておくんだったと後悔したが、もうそんな話題が出てくることもなかった。
――人の死が分かるのって、本当に霊能力なんだろうか?
 誰にでもある能力ではないかとも思う。ただ気付かないだけで、感じていても、
――まさか、そんなことは――
 と思うだけで、それ以上感じない。
 人の死というのは、そんなに軽々しく口に出していいものだろうか? もっと神聖なものであって、他の人に簡単に分かるはずのないものではないかという考えもあるだろう。人には寿命が決まっていて、たとえそれが不慮の事故であっても、人間の介在できない目に見えない力が働いていて、侵すことのできない領域なのではないだろうか。
 しかし、石田氏は何かの拍子に突然分かるのだ。それが誰であるかは関係ない。知り合いである場合もあれば、まったく知らない人で、目の前を偶然歩いている人かも知れない。誰であるかというよりも、誰かが死ぬと分かる時があって、対象者がその時に偶然目の前にいる人だったりしたらどうだろう。もしそうだとすると恐ろしいことではないか。
 石田氏が自分の能力に気付いたのは、子供の頃だった。近所に今にも壊れそうな木造家屋があり、誰かが住んでいる気配はあるのだが、顔を見たことはなかった。どんな人か垣間見ようと思っても、
「あそこに近づいてはいけません」
 という親の注意を忠実に守るような子供だった石田少年に、そんな冒険心などあろうはずもなかった。家自体はかなり広く、昔は屋敷だったのだろう。
 子供の頃というと、可能性が無限にあるものだという錯覚をしている時期である。大人になるにつれていろいろな理屈が分かってくるからか、可能性の限界を知るようになる。それだけ臆病にもなるというものだ。
 臆病という言葉、取りようによっては大人になるためのハードルにも思える。だが、それすら否定したい気持ちになる時が思春期には必ず訪れる。自分自身を否定してしまう時である。
 そんな時に、
――鬱病なんだろうか?
 と思ってしまう。
 鬱状態に陥ると、今度は匂いだけではない。色や形までが歪に感じられる。
「信号機の渡れのサインは何色ですか?」
 と聞かれて、人によっては青だといい、違う人は緑だというだろう。見る人によっても違えば、同じ人であっても、その時の精神状態によって微妙に変わってくる。それが鬱状態になると、序実に表れてくるのだ。
 夜と昼でも見え方が違う。夜の方が鮮やかに見えるように感じるのは、石田氏だけだろうか。赤にしても鮮やかな赤である。
 明るい時間帯は、明るいだけに塵や埃まで見えてくるので、光が屈折して見えるのかも知れない。だから夜の方が鮮やかな色に見えてきて、自分の視力が上がったのではないかという錯覚まで感じることがある。実におかしなものである。
作品名:短編集40(過去作品) 作家名:森本晃次