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短編集39(過去作品)

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 それでも少しあった貯金を元に不動産屋の扉を叩く。若いアドバイザーに金銭的な条件や、騒音のないところという第一条件を提示していろいろ物件を探してもらったが、今住んでいるところに決まるまでにそれほど時間が掛からなかった。
 最初は、
――一日で決まることもないだろう――
 と考えていたが、そんなこともない。
「この物件など掘り出し物ですよ。しいて言えば少し古いというくらいですね。でも築十年ちょっとで、ニLDKならいいんじゃないですか」
 と言われて興味を持った。さっそくアドバイザーとともに一緒に物件を見に行くが、
「少し暗いというのも難点ですが、でも、お客さんのいう騒音や物音というのは、鉄筋コンクリートなので、かなり防げるはずですよ」
 言われてみて壁を叩く。確かに頑丈である。
 しかも、マンションの管理会社の話では、ちょうど両隣と、真上の部屋は空いているそうで、今なら騒音もないということである。
――しばらく住んでみて、うるさくなったら、また引越しをすればいいか――
 と思い立って、契約することにした。
 有働という男、高い買い物をする時はそれほど悩まないが、中途半端な買い物をする時は、これでもかと思うほど悩む。
 高い買い物は、最初から購入意志を持って出かけるので、ある程度絞り込んでいるところがあるが、中途半端な値段のものは、絞込みなどせず、衝動的にほしくなって、それで悩むのだ。今回のマンションを借りるという件は、さすがに安いものではないので、それなりに最初からある程度の線を決めてきていたので、決めるのにもそれほど時間が掛からなかったというわけだ。
 不動産屋さんが話した「暗い」という問題も別に気にしなければ問題ない。読書を楽しむのには問題ないし、休みの日など散歩も日課なので、あまり気にすることもなかった。
 だが、不動産屋さんは、それが一番ネックだったようだ。
「いかがでしょう?」
 少し奥歯を噛みしめ、探るような眼差しで有働を見たが、有働はそれほど考えることもなく、
「いいですね。ここに決めましょう」
 とほとんど二つ返事だった。
 引っ越してきてそろそろ二ヶ月が経とうとしていた。前住んでいたところと距離的にはそれほど遠くないのだが、会社とは反対方向。まったく知らなかった場所といっていい。実に新鮮な心境だ。
 前住んでいたところは、どちらかというと学生街、飲食店や喫茶店には不自由することはなく、あまりいいことのなかった木造家屋だったが、近くに銭湯があったのは嬉しかった。
 前の部屋を離れた原因で一番大きかったのは、騒がしさだった。自然現象に近い大きな音は気にならないが、気をつければ避けられるような音で悩まされるのは嫌だった。
 近くに線路があったが、電車が通ると部屋全体が響くほどの振動がある。夜など、ライトが眩しいくらいだが、線路があるのだから電車があるのは避けられないことで仕方がない。
 そういうことは別に気にならないのだが、どうしても学生街、アパートで一人暮らしをしている人のところに群がるのは当然のことだ。
 特に女性の笑い声に乗って男の低い笑い声が目いっぱい聞こえる時が一番うるさい。何度文句を言ってやろうかと思ったことか。大家さんに言っても埒があかないので管理会社に電話すると、返事はいいがまったく改善される気配がない。憤りが激しくなり、
――なぜ自分がこんなに憤らなければならないのか――
 という、どこにも向けられないストレスを抱え込むことになるのだ。仕方がないで済ませられるものではない。
 耳栓を買ってきたりしたこともあったが、春になると自然と騒音が少なくなっていった。ある程度諦めの境地に入っていた時だっただけに複雑だったが、静かになるに越したことはない。素直に喜んだものだ。
 うるさかった連中の部屋の住人が引っ越したことを知ったのは、それからしばらくしてからのことだった。
――いないならずっといないでほしいな――
 と思ったのも束の間、部屋が静かになって二ヶ月ほどで次の入居者が決まった。
 入ってきた人は女性で、有働とあまり年は変わらないくらいだろうか。大人しい感じの人で、あまり人懐っこさはなかったが、それほど嫌な感じの人ではない。むしろ、気を引かれてしまうところのある不思議な女性に思えてくる。あまり表情が変わることもないので妖艶な感じなどまったくなかった。
 今までと比べて恐ろしいくらい静かだった。
――本当に人が住んでいるんだろうか――
 と思えるほど隣の部屋から人の気配が感じられない。しかも出かける時に出会うこともなく、最初に挨拶に来てから一月に一回会うか会わないかというところだった。
 彼女が引っ越してきて三ヶ月ほど過ぎてからのこと、隣の部屋から不思議な呻き声が聞こえた。喉を絞められるような声に聞こえたので、思わず警察に電話しようと思ったくらいだ。
 しかし、その声はフェードアウトしていくどころか、だんだん拡声してくるようだ。押し殺すような声が一旦はじけると、最後に糸を引いて消えていくまで一定の抑揚が感じられた。それが、淫靡な声だということにその時は気付かなかったくらいだ。声が止んで静寂が訪れると、掻いてしまっていた汗が一気に引いてくるのを感じる。
――今のはなんだろう――
 女性と身体を重ねたことはもちろん、女性と付き合ったこともない有働に、その声の正体が分かるわけもなかった。だが、尋常でないことは本能が分かるのか、掻いてしまった汗が引いていく間、自分を包む空気が湿気に満ちていて重たいものであることを意識していた。まるで空気が水のように、身体を動かそうにもかなりの抵抗を感じさせられるほどだった。
「あっ、あぁ」
 次の日にも同じ時間に声が聞こえてきた。その時にはハッキリとそれが女性の歓喜の声であるということが分かっていた。昨日と何かが変わったというわけではない。ただ、その日が初めて聞いた声ではなかったというのが違うだけだった。
――相手はどんな男なのだろう――
 想像力が頭を擡げる。しかし見てはいけないのだ。隣の住人なので、いくら今までほとんど見かけたことがないとは言え、これからも顔を合わせることになる。そんな人のプライバシーに踏み込むようなマネができるはずもない。
 そんな有働の気持ちを知ってか知らずか、歓喜の声は毎日のように聞こえてくる。それも同じ時間に……。
 有働は部屋を暗くして、シーンとなった部屋でその瞬間をじっと待っている。声が聞こえてくるまでに頭で出来上がってしまう淫靡な気持ちがまわりに充満して、湿気を帯びた空気を作り出していた。
 最初は男の部分が顔を出し、楽しみにしていたところがあったが、さすがに毎日では現実に戻った時に顧みる自分が情けなくなる。彼女もおらず、毎日悶々とした気持ちを、隣室から聞こえてくる声で満たそうとすること自体、度台無理なことなのだ。
――どこかにいい部屋があれば引っ越したい――
作品名:短編集39(過去作品) 作家名:森本晃次